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大弐局(だいにのつぼね、生没年未詳)は、鎌倉時代初期の女性甲斐源氏の一族である加賀美遠光の娘で、母は和田義盛の娘(もしくは姉妹)。兄弟に秋山光朝小笠原長清南部光行らがいる。鎌倉幕府2代将軍源頼家・3代将軍実朝二代の養育係を務めた。

略歴編集

父の遠光は朝廷平家と繋がりを持つ人物であったが、治承・寿永の乱においては、甲斐源氏棟梁の武田信義安田義定らとともに、伊豆の源頼朝に呼応した反平家の挙兵に参加している。遠光の活動は信義や義定に比べ目立つものではなかったが、鎌倉幕府の設立後は頼朝から自立的行動をとり排除された信義・義定に対し、遠光は頼朝へ接近を図り一定の地位を確立している。

吾妻鏡』によれば大弐局は文治2年(1188年)7月4日に大倉御所に参上し、頼朝より7歳の嫡男万寿(のちの頼家)の養育係に定められ、9月1日には頼朝と対面して大弐局の名を与えられ、父遠光は盃酒を献じたという。

さらに、建久3年(1192年)8月9日、頼家の弟千幡(のちの実朝)誕生にあたり、乳母として召された阿波局による乳付けの儀式で介添えを務め、11月の千幡の御行始にも阿波局と共に介添えを務め小袖1領を贈られたという。同年12月、頼朝が父遠光ら御家人を集めて千幡を披露しを振る舞った際には、給仕を務めている。

頼家に続き実朝の養育係も務め、実朝付き女房の筆頭格となる。建保元年(1213年)5月の和田合戦では敗北した和田氏方の所領であった出羽国由利郡を与えられ、養子である甥の大井朝光に譲ったとされる。

鎌倉時代には女性の発願による造像が多いが、称名寺(神奈川県横浜市)所蔵の大威徳明王像は近年内部から像内納入品が発見され、銘から同像は運慶による作で、大弐局の発願であったことが確認されている。

参考文献編集

関連項目編集