大関宗増
大関 宗増(おおぜき むねます)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。那須氏の家臣。
時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
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生誕 | 寛正3年(1462年) |
死没 | 天文13年(1544年) |
官位 | 美作守 |
主君 | 那須資房 |
氏族 | 大関氏 |
父母 | 父:大関増雄 |
子 |
増次 養子:高増(大田原資清長男) |
大関氏は武蔵七党・丹党流とされ、那須七騎の一つ。寛正3年(1462年)、大関増雄の子として誕生。
那須資房による那須氏再統一に功があったが、永正15年(1518年)、同僚の大田原資清の才を妬んで主君に讒言し、これを追放して専横を極めた。
天文11年(1542年)、越前国の朝倉氏の支援を受けたともされる大田原資清が帰参し、宗増の嫡男・増次に奇襲を掛け増次は敗死、宗増は資清の長男・大関高増を養嗣子として迎えることを余儀なくされた[1]。
脚注
編集- ^ 『史料綜覧』第9編之910 160頁
出典
編集- 『寛政重修諸家譜』(六百五十八)