天守番
概要
編集天守番の存在を示す古い記録として『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)の日比野家の項(日比野忠重)に「慶長19年より御天守番をつとむ」とあり[1]、慶長19年(1614年)には存在が認められることが指摘されている[2][3]。天守番の序列は時代により差異が認められるとされ、『寛永諸家系図伝』では旗本扱い(御目見以上)を受ける例や「半御目見」とされる例があった[4][5]。
他の役職との比較として、大番の後に天守番となっている例が散見される。例えば『寛政譜』の窪田家の項(窪田久吉)に「大番となり、のち御天守の番をつとむ。寛永3年6月晦日死す」とあり[6]、大番の後に天守番に配属されていることが分かり[5]、また富士家の項目(富士信重)に「采地を賜はり大番をつとむ(中略)後御天守の番をつとむ」とあり、大番の後に天守番を勤めていることが分かる[7]。従って、幕府創設期の天守番の役職は大番と比して低位ではないとされる[2]。
江戸城五重の天守は明暦の大火で焼け落ち、保科正之の意見によって再築は控えられた。しかしその職のみは存置された。 人員は40名、これを4組に分けた。100俵高5人扶持で躑躅間詰。天守下番21人とともに天守番頭4人がそれぞれ1組を支配した。番頭は400石高、焼火間詰、留守居の支配下。
脚注
編集出典
編集参考文献
編集- 小川恭一『徳川幕府の昇進制度-寛政十年末 旗本昇進表-』岩田書院、2006年。ISBN 4-87294-443-7。