富士信重
富士 信重(ふじ のぶしげ)は、戦国時代から江戸時代前期の武士。富士氏の一族。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄4年(1561年) |
死没 | 正保3年1月27日(1646年3月14日) |
別名 | 通称:又市郎、市兵衛、法名:喜西 |
墓所 | 安養寺[注釈 1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康、秀忠、家光 |
氏族 | 富士氏 |
父母 | 父:富士信忠 |
兄弟 | 富士信通、富士信重 |
妻 | 織田氏の娘 |
子 | 富士信友、富士信久、富士信吉、富士信成 |
略歴編集
大宮城主であった富士信忠の子である。富士氏一族でも大宮司職を継ぐ本流に対して庶流にあたる。信忠-信通と連なる大宮司職を歴任した本流は、武田氏による駿河侵攻以後は武力解除が進められ神職としての体制に集約されていった。一方信重は本流とは異なる動向を示しており、富士氏の本拠である富士大宮(現在の静岡県富士宮市)から離れた地で知行を得ていた。天正19年(1591年)5月3日には徳川家康より知行地として長尾台・飯嶋(相模国鎌倉郡、現在の神奈川県横浜市栄区)に100石を与えられている[1][2]。
信重は長尾台に屋敷を有しており、『新編相模国風土記稿』の長尾台村の条には「富士又と記せしをみると信重は当村に居住した」とある[3][4][5]。『寛永諸家系図伝』によると、通称は市兵衛で小牧・長久手の戦いの際に家康に属し、その後の家康の関東転封にも同行し、以後徳川家光の代まで仕えていたという[6]。また『寛政重修諸家譜』では、相模国鎌倉郡および下総国印旛郡に知行を得ていたことが記され、また関ヶ原の戦いに参加したとある[7]。『御番士代々記』には小牧・長久手の戦いと同年の天正12年に松平康安麾下の大番士となり、以後死去するまで同職にあったとある。
脚注編集
注釈編集
出典編集
参考文献編集
- 浅間神社社務所 『浅間神社の歴史』古今書院〈富士の研究〉、1929年。
- 「山之内庄長尾䑓村」 『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之102村里部鎌倉郡巻之34、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/69。