太田 資武(おおた すけたけ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・越前福井藩家臣。太田資正の三男。初名・景資[2]。源三郎。五郎左衛門尉。安房守。子に太田資信

 
太田 資武
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 元亀元年(1570年
死没 寛永20年11月11日1643年12月21日
改名 景資→資武
別名 源三郎、五郎左衛門尉、安房守
戒名 霊顔道鷲庵主
墓所 福井県福井市徳尾町禅林寺
主君 佐竹義重義宣結城秀康松平忠昌
氏族 清和源氏太田氏摂津源氏
父母 父:太田資正、母:八代将監息女?
兄弟 氏資梶原政景資武、(景資[1])、潮田資忠、女(成田氏長室)、女(多賀谷重経室)
資信梶原景嘉
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母は法名を「月洲大瓊大姉」といい、伝承では小田氏家臣の八代将監の娘で常陸国片野城主であった上曽源三郎の後室になっていたのを佐竹義重が片野城を攻略して太田資正を入れた際に一緒に与えたとされるが確証はない。

生涯編集

資武が誕生した時には、父・資正は長男の氏資に本拠地の岩付城を追われて常陸国の佐竹氏に寄寓して片野城に入っており、氏資も三船山合戦で戦死して岩付城は北条氏の城となっていた。氏資に代わって次男である梶原政景が父を補佐してきたが、天正12年(1584年)に突如北条氏に内通して佐竹氏を離反した。その後、政景は佐竹義重に降伏して許されたものの、この件もあって太田氏家督を継承できず、三男である資武が後継者となった。

天正14年(1586年)に佐竹義宣宇都宮氏を助けて下野国に出陣した際に父の名代として出陣している。同16年(1588年)には家督を継承して官途名五郎左衛門尉を名乗っている。天正18年(1590年)の小田原の役では佐竹義宣に従って参陣、その後の江戸氏大掾氏攻略にも功績をあげている。

その後、資武は結城氏から招かれてこれに仕え、慶長6年(1601年結城秀康越前国移封に従って3,000石を与えられて軍奉行に任ぜられる。その後、大坂の陣で活躍し、松平忠昌の代に7,900石に加増された。

墓は福井市徳尾町の禅林寺にある。

平成29年(2017年)5月、禅林寺の墓所修復中に五輪塔内部に収められた資武の骨壷と遺骨が発見された。当時の埋葬方法では五輪塔の下の地下に骨壷を埋葬するのが普通であったが、資武の場合は五輪塔内部の石と石の接着面の窪みに茶色い焼き物でできた骨壷が収められていた。[3]

脚注編集

  1. ^ 景資を資正の四男とする系譜と三男・資武の初名とする系譜がある。
  2. ^ 『太田潮田系図』による。なお、景資(五郎左衛門尉)を別人(資正の四男)とする系図もある。
  3. ^ 福井・禅林寺、修復の五輪塔の中から(2017年5月19日)

参考文献編集

  • 前島康彦「岩付城主太田氏衰亡論」(初出:前島 編『大田氏関係文書集第四』(練馬郷土史研究会、1964年)/所収:黒田基樹 編『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』(2013年、岩田書院))
  • 黒田基樹「岩付太田氏の系譜と動向」(黒田 編『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』(2013年、岩田書院)総論)