奥山弘道

江戸時代中期-後期の儒学者

奥山 弘道(おくやま ひろみち、延享4年(1747年)- 享和2年9月6日1802年10月2日))は江戸時代中期-後期の儒学者、教育者。(あざな)は君美。通称は卯蔵。は審軒[1]福岡藩藩儒[2]

経歴 編集

福岡藩士奥山正好の子として筑前国に生まれる[2]。安井静宇の門に学び、天明3年(1783年)福岡藩第9代藩主黒田斉隆の命により、藩校修猷館が創建されると、その教導となる[1]

その後、支藩秋月藩藩主の侍読となり[1]寛政3年(1791年)修猷館総受持(館長)竹田定良により、井土周徳島村遜とともに、総受持助に任命され、定良の総受持職を3名で輪番で補佐することとなった[3]

福岡藩主黒田家家譜の編修にも携わった[1]

出典 編集

  1. ^ a b c d 『日本人名大辞典』(講談社、2001年)426頁
  2. ^ a b 笠井助治『近世藩校に於ける学統学派の研究 下』(吉川弘文館、1970年)1561頁
  3. ^ 『修猷館二百年史』(修猷館二百年記念事業委員会、1985年)30頁