奥村鋭作
明治・大正期の陸軍軍人
奥村 鋭作(おくむら えいさく、1870年6月18日〈明治3年5月20日[1]〉 - 1945年〈昭和20年〉11月12日)は、明治・大正期の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2]。
経歴
編集三重県河藝郡(かわげぐん)玉垣村(鈴鹿市)出身。父は要蔵(伊勢亀山藩士)で、母は(柘植)たき。明治24年(1891年)に陸軍士官学校卒業(陸士2期)、日清戦争に動員された後に陸軍大学校に入学し、明治32年(1899年)に同大学校を優等で卒業(陸大13期恩賜)。明治35年(1902年)9月にオーストリア・ハンガリー二重帝国首都ウィーンに向けて出発。明治36~37年にチロル王立猟兵第4連隊(ザルツブルク;Tiroler Kaiserjäger 4. Regiment)に隊付[3]。明治37年(1904年)、日露戦争勃発により日本に緊急帰国。明治39年(1906年)4月にふたたびオーストリア・ハンガリー二重帝国首都ウィーンに向けて出発。明治39年夏に(オーストリア・ハンガリー二重帝国)陸軍射撃学校(Armeeschießschule)に入学・卒業。明治40年(1907年)、(オーストリア・ハンガリー二重帝国)第九十九メーレン(モラビア)歩兵連隊(99. Mährisches Infanterieregiment)に隊付後、帰国。
1911年(明治44年)1月、陸軍歩兵大佐進級と同時に歩兵第19連隊長に着任し[2]、1914年(大正3年)8月に参謀本部外国戦史課長に転じた[2]。1916年(大正5年)5月、陸軍少将進級と同時に歩兵第32旅団長に就任し[2]、1919年(大正8年)7月に陸軍中将昇進と同時に待命[1]。同年11月、予備役に編入された[1]。
栄典
編集- 位階
- 1892年(明治25年)7月6日 - 正八位[4]
- 1895年(明治28年)2月28日 - 従七位[5]
- 1898年(明治31年)12月22日 - 正七位[6]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 正六位[7]
- 1911年(明治44年)3月20日 - 従五位[8]
- 1916年(大正5年)4月10日 - 正五位[9]
- 1919年(大正8年)7月25日 - 従四位[10]
- 勲章等
訳書
編集- ベルモンド・オット著、誉田(ほんだ)甚八・奥村鋭作共訳『戦争の統計的観察 全』偕行社、明治35年。
脚注
編集- ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』184頁。
- ^ a b c d 外山 1981, 97頁.
- ^ 『明治三六年七月二五日墺国駐在近況報知』
- ^ 『官報』第2707号「叙任及辞令」1892年7月7日。
- ^ 『官報』第3498号「叙任及辞令」1895年3月1日。
- ^ 『官報』第4646号「叙任及辞令」1898年12月23日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第8321号「叙任及辞令」1911年3月21日。
- ^ 『官報』第1105号「叙任及辞令」1916年4月11日。
- ^ 『官報』第2093号「叙任及辞令」1919年7月26日。
- ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
- ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
編集- 奥村鋭行(おくむらとしゆき)「百年余の時空を越えて〜陸軍中将奥村鋭作について」『文化研究10号』亀山市芸術文化協会文学部門文化研究部会偏 2011年10月29日、48頁-57頁。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 奥村鋭作『明治三六年七月二五日墺国駐在近況報知』国立国会図書館 寺内正毅文書十八 寺内正毅関係文書248 奥村鋭作書翰 1