孝成王 (趙)
孝成王(こうせいおう、? – 紀元前245年) は、中国戦国時代の趙の第8代君主(在位:紀元前265年 - 紀元前245年)。王としては第3代。姓は嬴、氏は趙、諱は丹。恵文王の子。
孝成王 趙丹 | |
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趙 | |
王 | |
王朝 | 趙 |
在位期間 | 紀元前265年 - 紀元前245年 |
都城 | 邯鄲 |
姓・諱 | 趙丹 |
諡号 | 孝成王 |
没年 | 紀元前245年 |
父 | 恵文王 |
后妃 | 趙威后 |
生涯編集
孝成王の時代、趙は強勢となった秦にたびたび脅かされていた。
孝成王6年(紀元前260年)、孝成王は老将廉頗に替えて、趙括を将軍に任じて攻勢に転じようとし、長平(現在の山西省晋城市高平市の北西)において秦軍と対峙した(長平の戦い)。だが秦の将軍白起は趙括の戦術を完全に見抜いており、囮と伏兵を用いて趙軍を分断した上で退路を断ち、さらに本国からの補給路をも断って趙軍を戦場で孤立させた。趙軍の孤立状態は46日間に及び、飢えた兵士たちは餓死者や殺した仲間の肉で食いつなぐという状態にまでなった。趙括は事態を打開すべく、軍を4隊に分け5度にわたって反撃に出るも包囲突破は果たせず、ついに趙括は討ち死にし、投降した趙軍40万は生き埋めにされた。
孝成王21年(紀元前245年)、孝成王は死去した。死後、趙の将軍廉頗と楽乗は他国へ出奔し、孝成王の後を継いだ子の悼襄王は李牧と龐煖を新たに起用した。
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