安倍広賢
経歴編集
天治元年(1124年)に天文博士に任ぜられる。康治2年(1143年)図書頭の官職にあった[1]。
天文道の分野で卓越した才能を発揮し、その子孫は代々天文密奏宣旨を受けて天文博士となり、安倍氏「宗明流」の事実上の祖となった。広賢は子・信業と共に天文異変の相論を起こして怪死した。
陰陽師安倍氏の嫡流家当主の安倍泰親は九条兼実に対して広賢・信業親子が怪死を遂げたのは、彼らが天文の解釈を誤って相論を行ったからだと非難[2]しており、この事が反対に嫡流家側の宗明流に対する危機感を窺わせる。
系譜編集
脚注編集
出典編集
- 赤澤春彦「鎌倉期における安倍氏の展開」(所収:『鎌倉期官人陰陽師の研究』(吉川弘文館、2011年) ISBN 978-4-642-02893-6 (原論文2008年)
- 佐藤均「安倍広賢」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-04-031700-7)