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近衛天皇

日本の第76代天皇

来歴編集

治天の君であった鳥羽上皇と、寵妃の得子(美福門院)の皇子として生まれる。父の鳥羽上皇に即位を望まれ、生後1か月余りの6月27日、異母兄の崇徳天皇中宮藤原聖子の養子となり、天皇の御所・小六条殿に参入。同年7月16日に親王宣下され、8月17日に立太子。翌々年の永治元年(1141年)12月、わずか3歳(満2歳5か月)で崇徳天皇の譲位を受けて即位した。在位中は鳥羽法皇院政を敷いた。

久安6年(1150年)1月4日、12歳で元服。同月10日、内覧藤原頼長の養女多子(11歳)が入内、19日に女御となり、3月14日に立后、皇后となった。しかし、4月21日に関白藤原忠通の養女呈子(20歳)も入内して、6月22日に立后、中宮となる。呈子は美福門院の養女ともなっていたので、美福門院は呈子の早期出産を期待していた。仁平2年(1152年)に呈子は懐妊の兆候を見せ内裏を退出するが、これは周囲の期待に促された想像妊娠であったらしく、出産予定の翌年3月をはるかに過ぎても何の気配もなかった(『台記』仁平3年9月14日条)。

この騒動が終わった仁平3年(1153年)、15歳の近衛天皇はこの頃から著しく病気がちであり、同年には一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げたという(『台記』仁平3年9月23日条)。ところが、当時は近衛天皇に面会できたのは忠通らごくわずかで面会が出来なかった鳥羽法皇は忠通が嘘をついていると考えた[2]。病弱な上に17歳で早世したため結局、皇子女は生まれなかった。

久寿2年(1155年)7月23日、御所としていた近衛殿において崩御。その夜、後継天皇を決める議定が開かれ、崇徳上皇の皇子で美福門院の養子でもある重仁親王が有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁王(後の二条天皇)への中継ぎとして、その父の雅仁親王(後白河天皇)が即位することになった。鳥羽法皇が崩御すると皇位を巡って朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が起こる。

前述の通り、近衛天皇の健康情報は忠通が独占していたために数年前からの健康悪化は知られておらず、近衛天皇の死は左大臣・藤原頼長呪詛によるものという噂が流れた。口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが朕を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため朕は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べたので、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5〜6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという(『台記』久寿2年8月27日条)。

系譜編集

系図編集

 
(71)後三条天皇
 
(72)白河天皇
 
(73)堀河天皇
 
(74)鳥羽天皇
 
(75)崇徳天皇
 
重仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
覚行法親王
 
 
最雲法親王
 
 
(77)後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実仁親王
 
 
覚法法親王
 
 
(76)近衛天皇
 
 
 
 
 
 
 
媞子内親王
(郁芳門院)
 
 
 
輔仁親王
 
(源)有仁
 
 
 
 
篤子内親王
 


后妃編集

在位中の元号編集

  • 永治 - 元年12月7日(1142年1月5日)践祚、2年4月28日(1142年5月25日)即位により康治に改元
  • 康治 - 3年2月23日(1144年3月28日)甲子革令により天養に改元
  • 天養 - 2年7月22日(1145年8月12日)彗星出現により久安に改元
  • 久安 - 7年1月26日(1151年2月14日)暴風・洪水により仁平に改元
  • 仁平 - 4年10月28日(1154年12月4日)厄運により久寿に改元
  • 久寿 - 2年7月23日(1155年8月22日)崩御

諡号・追号編集

兵範記』久寿2年7月27日条によると、葬礼の準備が進められる中で院号定があり、まず右大弁藤原朝隆が「近衛院」を提案した。院号は邸宅に因むという原則があり、近衛殿は天皇の里内裏だった。しかし花山院忠雅は近衛の字は追号に憚りがあるので「後陽明門院」ではどうかと発言した。忠雅はその理由を述べていないが、「近衛とは天皇の護衛兵であり院号にふさわしくない」「それならば近衛大路に通じ、別称でもある陽明門が良い」「陽明門院は禎子内親王の院号として既に使用されているので、後の字を付けて区別する」という発想があったと推測される。これに対して中御門宗能は「天皇と天皇ならば前後の字があるべきだが、天皇と国母、男女の間では前後の字を付けた例はない」と反論。これにより「後陽明門院」や「陽明門院」は撤回され、当初の「近衛院」に決定した。

陵・霊廟編集

 
安楽寿院南陵

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町にある安樂壽院南陵(安楽寿院南陵:あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)に治定されている[3]。ここは京都南郊で、鳥羽と称された一帯に位置し、鳥羽法皇離宮内に自らや家族の墓所として設定していた場所でもある。鳥羽法皇は保延5年(1139年)に自らの墓所として安楽寿院の境内に三重塔(本御塔)を建てて遺言通りにそこに葬られたが、久安4年(1148年)頃には皇后藤原得子(美福門院)の墓所として三重塔(新御塔)も建てていた。しかし、得子は遺骸をそこに葬られるのを拒否し、遺言通りに遺骨は高野山に納められた。そのために新御塔は「空いたまま」となっていたが、長寛元年(1163年)になって知足院にあった近衛天皇の遺骨をここに移して新たに納めることとなった。

近衛陵は宮内庁上の形式では多宝塔となり、これは歴代天皇陵では唯一である。当初は三重塔であった新御塔であるが、慶長元年(1596年)の慶長伏見地震で倒壊してしまい、豊臣秀頼の命により多宝塔として再建された[4]

また皇居では、宮中三殿の一つ皇霊殿において、他の歴代天皇や皇族とともに近衛天皇の霊が祀られている。

勅願所編集

近衛天皇の役を演じた人物編集

補註編集

  1. ^ 「躰」は「體」の俗字。今日の日本語では「體」のもう一つの俗字である「体」を新字体として常用漢字に用いていることから、躰仁親王のことを体仁親王と記すことも多い。
  2. ^ 樋口健太郎「中世前期の摂関家と天皇」(初出:『日本史研究』618号(2014年)/所収:『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3) 2018年、P28-30.
  3. ^ 天皇陵(宮内庁)
  4. ^ 【悠久の天皇陵】(25)近衛陵/唯一の「多宝塔」に眠る『産経新聞』朝刊2018年11月14日(社会面)。
  5. ^ 『寺院大図鑑(天台宗兵庫教区)』