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安富 元家(やすとみ もといえ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将細川京兆家家宰

 
安富元家
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 永正元年(1504年
別名 又三郎、新兵衛尉(通称)
官位 筑後守
幕府 室町幕府 東讃近江守護代
主君 細川政元澄元
氏族 安富氏
兄弟 元家・若槻元隆・英春
元治元顕浦上祐宗[1]

生涯編集

細川京兆家の重臣として讃岐国東方守護代を世襲していた安富氏の惣領である。弟に安富民部丞とも名乗った若槻元隆真如寺住持を務めた英春がいる。馬部隆弘は元家ら兄弟を安富元綱の子と推定している[2]

元家は文明2年(1470年)頃から安富氏の惣領として讃岐東方守護代を務めていたことが諸史料からわかる。細川政元の家宰として京都で政元に近侍しながら、畿内各地を転戦して数々の武功を挙げた。

延徳3年(1491年)に政元が近江国守護に任じられると、その守護代に任じられ、近江に赴いて実際の政務を担当した。明応2年(1493年)、明応の政変が起こると、政元の命令により上原元秀と共に正覚寺城において畠山政長を攻め滅ぼしている。

当時、細川政元は修験道に凝って政務を顧みることが少なくなったため、細川京兆家は「内衆」と呼ばれる重臣の合議によって幕政を運営していた。元家はこの内衆筆頭として政元の政務を代行し、実際の幕政を担当した。政元の後継者問題では細川澄元を支持している。後法興院記によれば、元家は永正元年(1504年)、摂津国淀において寺町又三郎と合戦に及び戦死したと伝えられる。

また、永正4年(1507年)8月1日には元家の嫡男で讃岐守護代を継承していた元治も細川氏の内紛で戦死した(宣胤卿記)。さらに永正8年(1511年)には船岡山合戦で元治亡き後の安富氏を束ねていた元顕も戦死してしまう。元家に続き、彼の後継者として期待されていた元治・元顕兄弟の相次ぐ戦死により、安富宗家は畿内での影響力を失い、一気に没落する結果となった。

逸話編集

  • 修験道に凝って政務を顧みなかった政元に代わって、実際に政務を代行することが多かった。このため、実質的な権力は元家が握り、権勢を極めたといわれる。
  • 政元が修験道の修行と称して丹波国に下向して京都に戻ってこようとしなかったため、庄元資と共に丹波に赴き、無理矢理政元を京都に連れ帰ったとされる。
  • 元家の近江守護代就任は足利義材六角高頼征伐に関連するものであった(長享・延徳の乱)。そのため、元家の近江支配は六角党のゲリラ戦などで困難を極めたといわれる。織田敏定浦上則宗らとも協力して国内を転戦し近江支配に尽力したが、結局、延徳4年(1492年)9月には守護代辞任を申し出て帰京している。
  • 文亀2年(1502年)政元は足利義澄と不仲になり元家邸に閉居している。このことからも政元の元家への絶対的な信頼が伺える。

脚注編集

  1. ^ 『蔭凉軒日録』
  2. ^ 馬部隆弘「細川高国の近習と内衆の再編」(初出:『史敏』通巻13号(2015年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P82-86.