宮岡寛

日本のゲームクリエイター

宮岡寛(みやおか ひろし、1958年[1]7月4日 - )は、日本ゲームクリエイター。元クレアテック代表取締役、角川ゲームス所属[2]を経て、現Cygames所属。メタルマックスシリーズの生みの親として知られる。

経歴・人物 編集

山口県防府市出身[1]早稲田大学を中退したあと劇画村塾に参加し、幼馴染の山本貴嗣からさくまあきらに紹介され、ライターとして活動を始める[1]鳥嶋和彦堀井雄二などと親交を持つ[3]ログインのRPG情報局ではデューク宮岡の名で[要出典]、『週刊少年ジャンプ』のファミコン神拳ではミヤ王の名で活動[3]また、『週刊少年サンデー』では「サンデーマンガカレッジ」や「めざせ!マンガ家」を土居孝幸と組んで連載していた。[要出典]

1986年から堀井の誘いで「ドラゴンクエストシリーズ」のロト三部作の制作に参加。『ドラゴンクエスト』では、シナリオのアシスタント、ダンジョンなどのデザインを担当した[4]。『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』制作中に堀井と衝突を繰り返し、シリーズから離脱する[1]

1988年に独立し、クレアテックを設立。1991年に当時主流のファンタジー的な要素を持つRPGとは一線を画した、SF色の強いRPG『メタルマックス』を発表。メタルマックスを企画した時彼の頭の中では「ロボット物」のゲームを作ろうと考えていたが、当時のグラフィックの制約上「口で説明するよりも制限された絵で説明する」の方が好ましいので「ロボット物」の企画は採用されず、絵の単純さとインパクトを優先して戦車を採用したという。[要出典]

その後、1995年まで『メタルマックス2』、『メタルマックスリターンズ』などを発表し、熱狂的なユーザーを獲得するが、発売元の倒産や撤退などに端を期した権利関係のゴタゴタが続き、メタルマックスシリーズから一時撤退。2005年にメタルマックスシリーズの流れを汲む『メタルサーガ 〜砂塵の鎖〜』がサクセスから発表されたが、権利関係の問題があったためか、宮岡およびクレアテックは開発初期には関わっていない。しかし、権利関係がクリアになったことにより、中途から参加している。その後の同シリーズ(『メタルサーガ 〜鋼の季節〜』、『メタルサーガ モバイル』、『メタルマックス3』)には復帰、企画段階から参加している。[要出典]

2022年7月29日にCygamesへの移籍を公表、所属ディレクターとして同社へ事業が移管された「メタルマックスシリーズ」のリブートに取り組むとしている[5]

愛猫家で、2001年ごろには猫を9匹飼っていた。[要出典]

ゲーム 編集

漫画原作 編集

出演 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d とみさわ昭仁 (2018年4月18日). “「竜退治はもうあきた」とドラクエチームから巣立った男がメジャーを目指して26年。流行に逆らい続けたメタルマックスが追い求めたのはドラクエからの自由だった【宮岡寛インタビュー】”. 電ファミニコゲーマー. マレ. 2023年12月31日閲覧。
  2. ^ @Kadokawa_Games (2017年4月21日). "今日は角川ゲームスの社員総会 #宮岡寛 ディレクターをはじめ 、#杉山一郎 プロデューサー、 #竹安沢和記 ディレクター、 #長谷川仁 ディレクター、#河野順太郎 プロデューサーなど開発スタッフ全員が新作を開発中です。ご期待下さい! 安田P". X(旧Twitter)より2021年9月27日閲覧
  3. ^ a b https://www.youtube.com/watch?v=8JNGj24j5-8
  4. ^ 堀井雄二 『虹色ディップスイッチ』 P.28
  5. ^ Cygames,「メタルマックス」関連事業を譲受。原作者の宮岡 寛氏はCygames所属のディレクターとしてシリーズのリブートに取り組む”. 4Gamer.net (2022年7月29日). 2022年7月29日閲覧。
  6. ^ メールで指令された任務をこなす504i専用ゲーム”. ケータイWatch. インプレス (2003年1月9日). 2023年12月31日閲覧。
  7. ^ Character”. メイQノ地下ニ死ス. コンパイルハート. 2015年11月11日閲覧。

外部リンク 編集