小倉 富三郎(おぐら とみさぶろう、1815年文化12年) - 1870年10月9日明治3年9月15日))は、徳島藩士。徳島藩学館管事。

生涯 編集

佐古萬年山(現在の眉山)の御墓山番、槍術師範を務める。1869年明治2年)四等学館管事に任命。

1870年(明治3年)、徳島藩の筆頭家老である稲田家の分藩運動が起こり、庚午事変に関わった為、同年9月15日東京都芝白金の藩邸で新居水竹と共に切腹する。これが日本法制史上、明治以後に行われた切腹刑の1つとされる。(最後の切腹刑は、2年後の1872年(明治5年)11月4日金沢藩執政(藩臣最高職)本多政均の暗殺に対する加賀本多家旧臣の敵討ち(明治の忠臣蔵と言われている)により、石川県刑獄寮の裁判で切腹の判決が下され切腹した旧臣12人(本多弥一、富田総、鏑木勝喜知、吉見亥三郎、矢野策平、西村熊、舟喜鉄外、浅井弘五郎、廣田嘉三郎、湯口藤九郎、芝木喜内、藤江松三郎)である[1][2])。

脚注 編集

  1. ^ 石川県立図書館 (2015年12月1日). “「明治忠臣蔵」「明治最後の仇討ち」と言われた、本多政均(ほんだまさちか)暗殺について載っている簡単な資料はないか。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2021年4月21日閲覧。
  2. ^ 谷正之「弁護士の誕生とその背景(3) : 明治時代前期の刑事法制と刑事裁判」『松山大学論集』第21巻第1号、松山大学総合研究所、2009年4月、279-361頁、ISSN 09163298NAID 1100075792002021年6月1日閲覧 

関連項目 編集