徳島藩

阿波国に所在した藩

徳島藩(とくしまはん)は、阿波国徳島県)・淡路国兵庫県淡路島沼島)の2国を領有した藩庁徳島城(徳島県徳島市)に置かれた。藩主外様大名蜂須賀氏。支藩として一時、阿波富田藩があった。

略史 編集

豊臣秀吉股肱の臣で播磨国龍野を領していた蜂須賀正勝は、天正13年(1585年)の四国征伐の後に阿波国を与えられたが、高齢を理由に嗣子の家政に家督を譲り、家政が徳島藩主となり、入部当時の石高は17万5千石で、板野郡の一部は他領であった[1][2]ため、支配領域は阿波国一円には至っていなかった。大坂の陣後、兵橘領や置塩領も徳島藩が治めた[3]。 同年、家政により徳島城が築城される。徳島城完成時に踊られたのが阿波踊りの発祥[4]とする説がある。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、家政は西軍により強制的に出家させられた上で高野山に追放され、阿波国は毛利家の軍勢が進駐して、その管理下に置かれた。その一方、妻が小笠原秀政[5]の娘で徳川家康の養女(万姫[6]である嗣子の至鎮は会津征伐に従軍しており、9月15日(10月21日)の本戦では東軍として参加した。この結果、戦後改めて至鎮に旧領が安堵されることとなった。この時より実質的に徳島藩が成立したと言えるため、家政は「藩祖」、至鎮を「初代藩主」として数える。

至鎮は大坂の陣において、2代将軍徳川秀忠より家臣団が7つもの感状[7][8]を受ける働きをした。これにより蜂須賀家は岩屋を除く淡路7万石を与えられたが、当時は藩主としては不安定な時期であり徳島県北部とともに正勝の義兄弟であった稲田植元を客分として招き知行地となった。寛永3年(1617年)に岩屋も加増され、阿波・淡路の2国・25万7千石[9]を領する大封を得た。

吉野川流域ではの生産が盛んで、特に10代重喜の時代になると徳島の藍商人は藩の強力な後ろ盾や品質により全国の市場をほぼ独占するに至った。藍商人より上納される運上銀冥加銀は藩財政の有力な財源となった。領石高25万石と言われているが、実際には阿波商人が藍、たばこ、塩などで得た利益を合算すると四十数万石になるともいわれている。

徳島城は明治新政府による1873年明治6年)の廃城令まで約300年間にわたり機能した。廃城令で城は破却。最後まで残っていた「鷲の門」は太平洋戦争中に焼失したものの、1989年昭和64年/平成元年)に個人により再建され、徳島市に寄贈された。2006年に、徳島城跡は日本100名城の76番目の城に指定されている。

明治4年(1871年)、廃藩置県により徳島藩は徳島県となった。その後名東県(阿波国・讃岐国・淡路国)を経て、一旦は高知県に編入された。家臣が陪臣扱い(士族になれない)になることを忌避して公然と徳島藩からの分藩運動をしていた稲田家と対立、明治5年に庚午事変が起こる。のち、淡路島は兵庫県に編入された[10]1880年(明治13年)に徳島県として再び分離された。

蜂須賀家は明治2年(1869年)の版籍奉還とともに華族に列し、1884年(明治17年)の華族令侯爵となった。

歴代藩主 編集

蜂須賀家

外様 17万5千石→25万7千石

  1. 至鎮 淡路国加増により25万7千石 [11]
  2. 忠英
  3. 光隆
  4. 綱通
  5. 綱矩
  6. 宗員
  7. 宗英
  8. 宗鎮
  9. 至央
  10. 重喜
  11. 治昭
  12. 斉昌
  13. 斉裕
  14. 茂韶

支藩 編集

公族(藩主一門) 編集

家老 編集

中老 編集

阿波九城 編集

蜂須賀氏入国後(天正年間)、阿波国内にあった既存の9つの中世城郭を改修し「阿波九城」と称する支城として整備した。一国一城令慶長20年(1615年))により廃城。

城番

不通大名 編集

江戸時代、意図して互いに交流をしない大名同士のこと。江戸城内で会っても会釈も挨拶も交わさないとされる。

家祖・蜂須賀正勝の娘糸姫家政の異母妹)は福岡藩初代藩主・黒田長政黒田孝高の子)の正室。糸姫と長政の間には娘・菊(井上庸名室)もいたが、関ヶ原の戦い慶長5年(1600年))の前に離縁され、実家の阿波国に返される。これは長政の継室として家康の養女栄姫保科正直の娘)が嫁ぐためである。この糸姫との離縁が、江戸時代中期までの黒田家と蜂須賀家の127年にわたる「不通大名」のきっかけとなった。

蜂須賀・黒田両家は享保12年(1727年)、蜂須賀綱矩黒田宣政の代に、陸奥守山藩[27]松平頼貞[28]のとりなしで和解した。

最期の藩主蜂須賀茂韶の孫・蜂須賀年子著『大名華族』(1957年、三笠書房。徳島新聞連載)には「黒田家から教わった『火伏せのまじない札』」の塗り込められた『火伏せの板戸』[29][30]の話が10代藩主・蜂須賀重喜の頃の伝承として出てくる。これによると、蜂須賀家は「江戸時代初期に黒田家からまじない札を教わった」とある。

豊臣秀吉を祀る豊国神社の再建は、明治期に黒田長成蜂須賀茂韶が中心になって行われた。また、長成の子の黒田長禮と茂韶の孫の蜂須賀正氏が共に鳥類学者であった縁で両家は親しくした。

幕末の領地 編集

上記のほか、明治維新後に日高国新冠郡を管轄したが、筆頭家老・稲田家に移管された。また、稲田家は増上寺領だった日高国静内郡および根室国花咲郡の一部(後の色丹郡)も移管を受けた。

徳島藩を舞台とした作品 編集

浄瑠璃
小説
映画
ドラマ

参考文献 編集

  • 児玉幸多北島正元監修『藩史総覧』新人物往来社 1977年
  • 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社 1997年 ISBN 978-4404025241
  • 中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書 2003年 ISBN 978-4166603527
  • 八幡和郎『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』光文社新書 2004年 ISBN 978-4334032715
  • 福永素久阿波国蜂須賀氏の支城「阿波九城」について」『史学論叢』第37巻、別府大学史学研究会、2007年3月、37-59頁、ISSN 0386-8923CRID 1050845762773979776 

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ 四国国分#阿波
  2. ^ 兵橘領1,082石。大坂の陣後に廃され、置塩領の一部とともに敬台院の化粧領となる。
    置塩領(赤松領)1万石の内7675石住吉20村。赤松則房は慶長3年(1598年)死去。
    赤松領1万石の内2325石乙瀬、奥野、大寺の3村は赤松則房に仕えていた乙瀬氏乙瀬領となった。
  3. ^ 徳島県史第3巻』 - 国立国会図書館デジタルコレクション p236 置塩領と兵橘領
  4. ^ 阿波おどり発祥には複数の説がある。
  5. ^ 徳川家康長男・松平信康の娘・登久姫の婿
  6. ^ 徳川家康の外曾孫
  7. ^ 大坂冬の陣の感状は10個で、そのうち7つが徳島藩に贈られた。
  8. ^ 蜂須賀家の参勤交代先頭は、この時の感状であった。
  9. ^ 四国一の大藩である。
  10. ^ 淡路国の分離は庚午事変が遠因とも言われる。
  11. ^ 洲本城の歴史
  12. ^ 5代藩主蜂須賀綱矩三男。富田藩2代藩主隆長の養嗣子だったが廃嫡。
  13. ^ 最期の至鎮男系子孫
  14. ^ 正室は隆寛の妹 津世。休光の四男。兄弟に休紹。
  15. ^ 休栄と津世の娘・艶と婚姻。婿養子。娘・斐姫は蜂須賀茂韶の正室。娘・倫子は斉裕養女として鷹司輔政に嫁ぐ。
  16. ^ 8代藩主・宗鎮の養継嗣となるが早世
  17. ^ a b 男爵
  18. ^ (蜂須賀玄寅。(池田恒興の曾孫))
  19. ^ (池田興龍(鎮辰)。2代藩主蜂須賀忠英の四男)
  20. ^ (玄寅庶子)
  21. ^ (第8代藩主宗鎮の男系孫)
  22. ^ 蜂須賀家政従兄弟説あり。蜂須賀正勝正室まつが益田氏の出とも言われる。まつ弟益田一正の子
  23. ^ a b 蜂須賀家の御家騒動 山川浩實(徳島県立博物館・博物館ニュース2006年3月)
  24. ^ 武藤家文書 徳島県立文書館蔵
  25. ^ 昭和~平成の歴史学者牛田義文先祖
  26. ^ 歌舞伎の初代中村勘三郎は、重勝(中村右近)の庶子である、とする説がある。
  27. ^ 水戸藩御連枝
  28. ^ 正室は徳島藩支藩・富田藩初代藩主・蜂須賀隆重の次女。
  29. ^ 柳に水車図・桐花図杉戸絵徳島城博物館蔵、徳島市有形文化財
  30. ^ 『大名華族』では「第二次世界大戦時の空襲で焼失した」と書かれているが現存。
  31. ^ 原士とは/原士堀北家控帳 阿波市立図書館 ADEAC
  32. ^ 市場町の民家 郷土研究発表会紀要第25号 徳島県立図書館
  33. ^ 上林春松本店
  34. ^ 藍作・養蚕・棉作・焔硝の採取・織物・紺屋人口動態について」阿波学会研究紀要 郷土研究発表会紀要第31号

外部リンク 編集

先代
阿波国淡路国
行政区の変遷
1641年 - 1971年 (徳島藩→徳島県)
次代
名東県