小田倉の戦い
小田倉の戦い(おだくらのたたかい)は、永禄3年(1560年)に、陸奥国白河郡小田倉にて発生した合戦である。
小田倉の戦い | |
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戦争:戦国時代 | |
年月日:永禄三年(1560年)3月26日 | |
場所:陸奥国白河郡小田倉(現福島県西白河郡西郷村) | |
結果:不明(那須軍の勝利?) | |
交戦勢力 | |
那須軍 | 白河結城・蘆名連合軍 |
指導者・指揮官 | |
那須資胤 大関高増 |
結城晴綱 蘆名盛氏 |
戦力 | |
500騎〜1700騎 | 3000騎〜4500騎 |
概要編集
発端編集
小田倉の戦いの原因については、次のような説が挙げられている。
- 蘆名氏が那須地域獲得のため、結城氏と共に侵攻した説[1]。
- 結城氏が、対立関係にあった那須氏を討つため、蘆名氏の援軍を受けて侵攻した説[2]。
- 那須氏が勢力拡大を画策し侵攻した説[3]。
- 陸奥国への進出を目論んだ佐竹義昭に、那須氏が呼応した説[4]。
しかし、どれも憶測の域を出ず、どちらが攻め手であるのかも不明である。
合戦の経過編集
数で劣る那須勢は大変な苦戦を強いられ、総大将であった那須資胤も負傷し、一時は自刃を覚悟するほどであったという(那須記)。しかし、有力家臣である大関高増らの軍勢が駆けつけたことにより、事なきを得た。
那須記によれば、その後攻勢に出た那須勢は、結城勢を追い立て革籠原(福島県白河市白坂)まで攻め入ったとされる。しかし、那須記は那須氏側の記録である上、江戸期に編纂されたものであることから、信憑性は低いとの指摘もされている[5]。
戦後編集
資胤は戦後、小田倉での苦戦は高増らの働きが不十分であったためと非難した。それを受けた高増は、上那須衆[6]を率いて資胤を離反し、その後7年間にわたって主家との抗争を繰り広げることとなった。
注釈編集
参考文献編集
- 『興野文書』
- 『那須記』
- 『栃木県史 通史編3』
- 『那須町誌』
- 『黒羽町誌』
- 『那須の戦国時代』
- 『常陸太田市史』