小笠原安元
小笠原 安元(おがさわら やすもと)は、戦国時代の武将。徳川家康に仕えた。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永正8年(1511年) |
死没 | 天正17年11月29日(1590年1月5日) |
別名 | 広元、康元、新九郎、摂津守 |
戒名 | 紹恩 |
墓所 | 天岑寺(埼玉県狭山市) |
主君 | 今川氏、徳川家康 |
氏族 | 小笠原氏支流 |
父母 | 小笠原摂津守 |
子 | 安次、左大夫、小笠原広重室、安勝 |
生涯編集
父の実名については範安、あるいは長安。また名も康元とし、徳川家康からの偏諱とする説がある。
当初は駿河の戦国大名今川氏に属したが、後に今川氏から独立した徳川家康に従った。永禄6年(1563年)三河一向一揆では磯城を守備した。永禄7年(1564年)三河幡豆郡の旧領を安堵され、同年の三河吉田城攻めでは敵の進路を防ぐ船形山砦を守り、城将大原資良の弟大原勘介を討ち取る武功を上げた。永禄11年(1568年)武田氏の武将秋山信友が遠江見附にまで進出した際、遠江馬伏塚城主の小笠原氏興が武田方に降伏しようとしているという風聞が流れた。安元はこのとき家康の命を受け、馬伏塚に赴いて氏興を説得し、氏興の証人を伴って帰還した。この功で三河国内に赤羽根・赤沢・蘆の3邑を加増された。永禄12年(1569年)掛川城の戦いでは青田山砦に入り、袋井口攻めで武功を上げた。元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原の戦いで徳川側が大敗した際、小笠原家も大被害を受け、安元の弟や嫡孫(安次長男の安広)など一族郎党7名が討死した。その後は隠退し、家督は子の安次が継いだが、安次も天正10年(1582年)9月25日に伊豆三島での小田原北条氏との戦いで討死し、安次三男(庶子)の広勝が跡を継いだ。
天正17年(1589年)、80歳で死去。自身が開基した三河国幡豆郡開戸の安泰寺に葬られた。法名「天岑院殿紹恩居士」。
墓所と子孫編集
三男(次男とも)の太郎左衛門安勝は幼名を喜三郎と名乗り、前述の掛川城攻めなどに父や兄と従軍し、大敗した三方ヶ原の戦いでは歩行困難となるほどの重傷を負った。以降も姉川の合戦や長篠の戦い、小牧長久手の戦いなどに参戦。天正18年(1590年)に徳川氏が関東入りした際に、武蔵国入間郡狭山に450石の領地を得た。同地には田中稲荷神社、峯愛宕神社など、安勝創建の寺社が存続しており、建物には小笠原家の家紋が刻まれている。寛永4年(1627年)78歳頃、隠居。寛永18年(1641年)2月3日に92歳で死去。
子孫は1千1百余石の大番組などを勤める旗本として存続した[1]。文禄3年(1594年)、父の安元の墓を領内に移し、天岑寺[2]を開基した。同寺は往時には七堂伽藍が揃っていたとも伝わるが、何度かの火事で焼けている。惣門は安勝の当時のものである。安勝以降の子孫の墓石が並ぶ。これらは安元と安勝以外の墓石が誰のものであるかは長く不明であったが、平成16年頃、狭山の郷土史学のグループ「狭山楽史会」により解明され、平成18年に狭山市の文化財に指定された。
江戸時代を通し存続し、領地替えは無かった。江戸幕府終焉時の当主は徳川将軍家の静岡転封に伴い静岡に移り、他の旧幕臣と共に牧之原台地の開墾を行った。のち東京に移住した。子孫は昭和10年代に女子のみとなり廃家届を出し、受理され、断絶した。
注釈編集
出典編集
- 「寛政重修諸家譜」巻第202