小野牛養
奈良時代の貴族
小野 牛養(おの の うしかい)は、奈良時代の貴族。官位は従四位下・皇后宮大夫。
時代 | 奈良時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 天平11年10月5日(739年11月10日) |
官位 |
従四位下、皇后宮大夫 勲五等 |
主君 | 元正天皇→聖武天皇 |
氏族 | 小野氏 |
経歴
編集聖武朝初頭の神亀元年(724年)3月に海道(東北地方の太平洋沿岸地域)の蝦夷が起こした反乱を鎮圧するため[1]、4月に任ぜられた持節大将軍・藤原宇合、副将軍・高橋安麻呂に続いて[2]、5月に牛養も出羽国の蝦夷征討のため鎮狄将軍に任ぜられる。この遠征による成果は明らかでないが、同年11月末に宇合と牛養は平城京に帰還している[3]。翌神亀2年(725年)閏正月に遠征した将軍らに対する叙位叙勲が行われた際、藤原宇合や高橋安麻呂は叙位叙勲を受けている。一方で、牛養は少なくとも叙位が行われた形跡がないが、天平年間には勲五等を持っていることから、この時に勲五等の勲位のみを与えられた可能性もある。
神亀5年(728年)正五位下に叙せられ、翌天平元年(729年)2月に発生した長屋王の変に際しては、右中弁として長屋王に対する罪状の糾問に参画している[4]。同年8月に従四位下に叙せられ、9月に聖武天皇の夫人・藤原安宿媛が皇后に冊立(光明皇后)されると、牛養は皇后宮大夫に任ぜられこれに仕える。天平2年(730年)には催造司監を兼ねて平城宮の造営も担当した。
官歴
編集『続日本紀』による。