山内みな

日本の社会運動家

山内 みな(やまのうち みな、1900年明治33年〉11月8日 - 1990年平成2年〉10月21日[1])は、日本の社会運動家。東京モスリン工場での過酷な労働と、同社の大規模争議を機に、労働運動や婦人運動へ経て、新婦人協会の創立や労働争議の指導に参加した。また社会運動家として日本労働総同盟大阪連合会婦人部副部長、関東婦人連盟執行委員など歴任した。宮城県本吉郡歌津村(後の歌津町)出身、旧姓は橘。自著に『山内みな自伝』がある[1]

やまのうち みな
山内 みな
15歳当時
生誕 橘 みな
(1900-11-08) 1900年11月8日
宮城県本吉郡歌津村
死没 (1990-10-21) 1990年10月21日(89歳没)
国籍 日本の旗 日本
団体 友愛会、日本労働組合評議会、日本労働総同盟大阪連合会婦人部、関東婦人連盟など
著名な実績 新婦人協会の創立、労働争議の指導、各労働団体の要職の歴任
代表作 『山内みな自伝』
肩書き 日本労働総同盟大阪連合会婦人部 副部長、関東婦人連盟 執行委員など
配偶者 あり
子供 あり
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経歴 編集

小学校卒業後の1913年(大正2年)、東京モスリンの募集を知り、「寄宿舎があり、仕事は楽、学校へも行ける」と聞かされ、親の反対を振り切って上京した。しかし労働内容は12時間立ちづくめ、食事も貧相で、過酷な環境であった[2][3]

1914年(大正3年)6月、工員の大量解雇に対してストライキが起きた。みなにとっては初めてのストライキ体験であった。当時は労働組合はなく、会社側は労働者団体である友愛会のみ交渉に応じたため、みなは友愛会を味方と知り[2]、活動に参加した[3]

同1914年、友愛会に婦人部が設立された[4]。1917年(大正6年)、友愛会の創立5周年大会で、代議員として初めて演説した。みなはこの演説で女工の実態について語り[5]、「私は社会のために働く」と宣言した[6]。実際には事前に懸命に書いた原稿を、演説の場では大衆を前にして完全に忘れてしまったというが、観衆からは拍手が巻き起こり[4]、翌日の『萬朝報』では「資本主義の圧迫から免れたい、そして社会の人としての待遇を得たいと女労働者は絶叫した」と報じられた[4]

この演説は、市川房枝平塚らいてう奥むめおといった婦人運動家たちとの出会いのきっかけとなった[6]。1919年(大正8年)10月には国際労働機関のワシントンでの第1回会議に際して、市川房枝により労働者代表に推薦されたが、日本労働総同盟の反対に遭って辞退した[5]

 
向かって右、25歳当時の山内みな。左は平林たい子

労働運動で著名となったため、会社からは人員整理で解雇された。その後は学校に通いながら、市川ら新婦人協会の書記を務めて、会の運営を手伝った[2][3]。さらに山川均夫妻の元での勉強を経て、1922年に『労働週報』の編集部に勤めた[7]。1925年、総同盟の分裂後、左派の日本労働組合評議会で活躍した[3][7]

翌1928年(昭和3年)に、左翼団体へ圧力がかかった。みなは運動の混乱下で結婚、夫の家のある大阪に移り、一時、運動の第一線から退いた[3][7]。戦中と戦後を経て、疎開先で洋裁店を営みつつ、政治運動を再開した。1946年(昭和21年)と1947年(22年)には衆議院選挙に出馬し、「労働者の国を作る」と唱えたが、落選した[3][5]

1950年(昭和25年)には上京。洋裁店を続ける傍らで、「婦人運動には住民と一緒の活動が必要」との考えから住民組織に参加して、ごみ処理場建設運動や、街の美化、街灯の設置など、身近な問題に取り組んだ[6]。1954年(昭和29年)のキャッスル作戦ビキニ環礁での核実験)後は、原水爆禁止運動にも関わった[3][6]。1990年(平成2年)10月21日、89歳で死去した[1][6]

女工から始まり、十代にして労働運動に身を投じたその生涯は、社会運動史そのものとの声もあり、1975年(昭和50年)に発行した自伝『山内みな自伝』は、「山内みなと共に同時代を生き、働き、共に戦った有名・無名の何万もの女性たちの歴史」とも評価されている[6]

没後の1996年(平成8年)9月、記録映画作家の羽田澄子による映画『女たちの証言』が公開され、丹野セツ福永操ら、昭和期の社会運動家たちと共に、当時の過酷な生涯が取り上げられた[8]

脚注 編集

  1. ^ a b c 日外アソシエーツ 2004, p. 2667
  2. ^ a b c 森 1996, pp. 164–165
  3. ^ a b c d e f g 東京女性財団 1994, p. 165
  4. ^ a b c 森 1996, pp. 166–167
  5. ^ a b c 楠瀬 & 三木 2004, pp. 108–109
  6. ^ a b c d e f 楠瀬 & 三木 2004, p. 110
  7. ^ a b c 森 1996, p. 168
  8. ^ 「耐えて労働運動の先駆 女性活動家に光 証言集め映画完成、来月1日東京で上映」『読売新聞読売新聞社、1996年9月26日、東京朝刊、21面。

参考文献 編集

  • 森まゆみ『明治快女伝 わたしはわたしよ』労働旬報社、1996年8月5日。ISBN 978-4-8451-0440-6 
  • 『先駆者たちの肖像 明日を拓いた女性たち』東京女性財団、1994年7月15日。ISBN 978-4-8107-0386-3 
  • 楠瀬佳子、三木草子 編『「わたし」を生きる女たち 伝記で読むその生涯』世界思想社〈Sekaishiso seminar〉、2004年9月30日。ISBN 978-4-7907-1078-3 
  • 日外アソシエーツ 編『20世紀日本人名事典』 下、日外アソシエーツ、2004年7月26日。ISBN 978-4-8169-1853-7https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E5%86%85%20%E3%81%BF%E3%81%AA-16578412020年9月25日閲覧