平林たい子
平林 たい子(ひらばやし たいこ、1905年(明治38年)10月3日 - 1972年(昭和47年)2月17日)は、日本の小説家。本名タイ。
平林 たい子 (ひらばやし たいこ) | |
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主婦と生活社『主婦と生活』5月号(1960)より | |
誕生 |
1905年10月3日 長野県諏訪郡中洲村(現:諏訪市) |
死没 |
1972年2月17日(66歳没) 東京都新宿区信濃町慶應義塾大学病院 |
墓地 | 長野県諏訪市 |
職業 | 小説家 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 長野県諏訪二葉高等学校卒業 |
活動期間 | 1927年 - 1972年 |
ジャンル | 小説 |
文学活動 | 無頼派(転向文学) |
代表作 |
『施療室にて』(1927年) 『かういふ女』(1946年) 『地底の歌』(1948年) 『砂漠の花』(1955年 - 1957年) 『秘密』(1967年) 『宮本百合子』(1972年) |
主な受賞歴 |
女流文学者賞(1946年) 女流文学賞(1967年) 日本芸術院賞・恩賜賞(1972年、没後) |
デビュー作 | 『嘲る』(1927年) |
配偶者 | 小堀甚二(1927年 - 1955年) |
ウィキポータル 文学 |
職を転々としながら、同棲、離別、検挙、生活破綻、中国大陸や朝鮮での放浪などを経て、その体験から『嘲る』『施療室にて』を発表。プロレタリア作家として出発した。戦後は反共姿勢を強め、晩年は難病に苦しんだが、社会や人生の不条理を逞しい筆致で描いた作品で知られた。没後日本芸術院賞・恩賜賞を受け、平林たい子文学賞が設定された。
生涯
編集現在の長野県諏訪市(旧諏訪郡中洲村)出身。貧しい農家に生まれ、12歳の頃にロシア文学を読んだことがきっかけで作家になることを決心し、上諏訪町立諏訪高等女学校(現在の長野県諏訪二葉高等学校)に首席で入学。高女時代に社会主義に関心を持ち始め、同校卒業後に上京して交換手見習いとして働き始め、アナーキスト山本虎三と同棲。山本の姉を頼って朝鮮に渡るが、1ヶ月で帰国。関東大震災直後のどさくさの中で検挙され、東京から離れることを条件に釈放される。結局日本では生活できなかったため山本の兄がいた満州に行き、大連の病院で出産するが、この女児は栄養不足のため、生まれてわずか24日目に死亡した。不敬罪で投獄された山本を残して帰国し、満州生活を描いた小説『投げすてよ!』執筆[1]。労農芸術家連盟に属し、その体験に基づく『施療室にて』でプロレタリア作家として認められる。1927年(昭和2年)小堀甚二と見合い結婚(1955年(昭和30年)、小堀に隠し子がいたことが判明したため離婚している)。
1947年(昭和22年)『かういふ女』(『展望』1946年10月)で第1回女流文学者賞を受賞した。
戦後は、転向文学の代表的作家とも言われ、政治的にも民社党を結党当初から支持するなど反共・右派色を強めていった。更に保守系の言論人団体である日本文化フォーラム・言論人懇話会にも参加している。 1958年、ソ連政府がボリス・パステルナークのノーベル文学賞授与を辞退させた際、日本ペンクラブ(副会長・青野季吉ら)のソ連政府よりの姿勢を、平林はエドワード・G・サイデンステッカーらと共に批判した[2]。
松本清張について、複数の助手作家を使った工房形式で作品を作っているのではないか、と韓国の雑誌『思想界』で指摘した。これに対し松本は、『日本読者新聞』において反論している。 また『文藝春秋』誌1963年(昭和38年)7月号に掲載された対談での発言について、創価学会から組織的とも言える抗議を受けている(なお、この対談では藤原弘達も出席しており同様に藤原も抗議を受けた)。
平林の作品は、同時代の文学者や平林自身をモデルに創作された小説のほか、社会時評、随筆など多岐にわたる。戦時中、博徒の石黒政一に助けられたことでヤクザの世界に興味を持ち、『黒札』、『地底の歌』、『殴られるあいつ』などの任侠小説も書いた。
1972年(昭和47年)2月17日、急性肺炎のため慶應義塾大学病院で死去[3]。 没後、日本芸術院賞・恩賜賞(1972年)を贈られ[4]、遺言により「平林たい子文学賞」が創設された。
記念館など
編集- 開館日、日曜日のみ。(月~土曜日は ※予約があれば開館する場合あり)
- 開館時間、9:00-16:00入館料、無料
- 主な収蔵品遺品、平林たい子の自筆原稿。
諏訪市図書館2階郷土資料コーナーには、遺族から贈られた蔵書約4,000冊が納められた平林記念文庫がある。
宇野千代との交流
編集作風は全く違うが、宇野千代への思い入れは強く、宇野の着物の店の良き常連客であり続け、宇野が事業に失敗した際にも、宇野に頼まれるまま、黙って20万円(現在の500万円相当)を差し出している[6]。しかし、宇野が執筆より事業に熱心であることに不満を持っており、その執筆態度が趣味的であると批判的だった[7]。
作品リスト
編集- 『施療室にて 平林たい子短篇集』文芸戦線社出版部 1928
- 『殴る』改造社 1929
- 『敷設列車』日本プロレタリア傑作選集 日本評論社 1929
- 『耕地』新鋭文学叢書 改造社 1930
- 『石鹸工場の同志』鹽川書房 プロレタリア前衛小説戯曲新選集 1930
- 『花子の結婚』啓松堂 1933
- 『悲しき愛情』ナウカ社 1935
- 『かういふ女』筑摩書房 1947 のち新潮文庫
- 『私は生きる』板垣書店 1947 のち角川文庫
- 『人生実験』八雲書店 1948
- 『女親分 他7篇』青々堂出版部 1949
- 『たい子日記抄』板垣書店 1949
- 『地底の歌』文芸春秋新社 1949 のち角川文庫
- 『露のいのち』文芸春秋新社 1949
- 『栄誉夫人』東京文庫 1950 - 園田天光光をモデルとした小説。後に平林、小説新潮編集長、東京文庫発行責任者らが名誉棄損で訴えられる[8]
- 『情熱紀行』大日本雄弁会講談社 1950
- 『春のめざめ』中央公論社 1950
- 『夢みる女』六興出版社 1950
- 『炎の愛』湊書房 1951
- 『夫婦めぐり』主婦之友社 1952
- 『愛情旅行』新潮社 1953 のち文庫、角川文庫
- 『桃色の娘』読売新聞社 1953
- 『追われる女』毎日新聞社 1954
- 『うつむく女』新潮社 1956 のち文庫
- 『女ひとり』大日本雄弁会講談社 ロマン・ブックス 1956
- 『女二人』近代生活社 近代生活新書 1956
- 『殴られるあいつ』文芸春秋新社 1956
- 『愛あらば』弥生書房 1957
- 『女は誰のために生きる』村山書店 1957
- 『砂漠の花』光文社 1957
- 『妻は歌う』毎日新聞社 1957 のち角川文庫
- 『炎の女 妲妃のお百・花井お梅・高橋お伝』新潮社 1958
- 『にくまれ問答』光文社カッパ・ブックス 1959
- 『愛と悲しみの時』文芸春秋新社 1960
- 『男たち』新潮社 1960
- 『自伝的交友録・実感的作家論』文芸春秋新社 1960
- 『情熱の市』講談社 1960
- 『ソヴィエト文学の悲劇 パステルナーク研究』編 思潮社 1960
- 『豊満聖女』角川書店 1960
- 『不毛』講談社 1962
- 『現代の貞女』講談社 1965
- 『愛と幻』講談社 1966
- 『真昼の妖術』サンケイ新聞出版局 1967
- 『作家のとじ糸』芳賀書店 1968
- 『秘密』中央公論社 1968
- 『鉄の嘆き』中央公論社 1969
- 『林芙美子』新潮社 1969
- 『平林たい子の自選作品 現代の女流作家』二見書房 1972
- 『宮本百合子』文芸春秋 1972
- 『平林たい子全集』全12巻 潮出版社 1976-79
- 『こういう女・施療室にて』講談社文芸文庫 1996
- 『林芙美子 /宮本百合子』講談社文芸文庫、2003
- 『平林たい子毒婦小説集』講談社文芸文庫 2006
映画化作品
編集参考書籍
編集関連書籍
編集脚注
編集- ^ 西荘保「平林たい子「施療室にて」論 : 喪失される子供の視点から」『福岡女学院大学紀要. 人文学部編』第15巻、福岡女学院大学人文学部、2005年2月、97-114頁、CRID 1050282812579524992、hdl:11470/446、ISSN 13492136。
- ^ エドワード・G・サイデンステッカー「日本との50年戦争―ひと・くに・ことば」(朝日新聞社)P.211
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)277頁
- ^ 『朝日新聞』1972年4月12日(東京本社発行)朝刊、23頁。
- ^ コトバンク日本の美術館・博物館INDEX平林たい子記念館とは 参照
- ^ 岡田秀子「意識の近代化と文学(3) 生と表現」『法政大学教養部紀要. 人文科学編= 法政大学教養部紀要. 人文科学編』第54巻、法政大学教養部、1985年1月、27-47頁、CRID 1390290699803426560、doi:10.15002/00005331、hdl:10114/4444、ISSN 0288-2388。
- ^ カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「宇野千代」(1)
- ^ 「天光光女子怒る 栄誉夫人筆者らを告訴」『日本経済新聞』昭和25年12月12日
関連項目
編集外部リンク
編集- 平林たい子記念館のご案内(長野県諏訪市公式ホームページ)
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『平林たい子』 - コトバンク