岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 1936年6月15日)は、日本教育者。号は天機。

来歴

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長野県安曇郡中萱村(現安曇野市)生まれ。南安曇郡高等小学校卒業後、明治24年(1891年)に上京し、小石川の尚志社に学んだのち、長野師範学校在学中に東邦協会に入会する。同30年(1897年)に卒業後、長野県内各地の尋常小学校で訓導や校長などを歴任した。同44年(1911年)同志の教育者とはかって「東西南北会」[1]を設立し、長野に三宅雪嶺犬養毅古島一雄池辺三山らを招いて講演会を開催し、人格主義教育を唱導した。

諏訪郡小県郡視学や長野県視学を経て、大正11年(1922年)埴科郡長に任命されるが[2]、教育に専念するため辞職。同12年(1923年)南安曇郡梓尋常高等小学校校長に就任し、信濃教育会評議員となり、教育会館建設に尽力した、昭和4年(1929年)に退職し、晩年は上京し北多摩郡千歳村(現世田谷区)で過ごした。信条を揮毫した「知時務持大節則師道埃」の掛け軸が安曇野市教育会に所蔵されている。親友の安倍能成の筆による頌徳碑がある。

脚注

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  1. ^ 三宅雪嶺が主宰する雑誌「日本及日本人」の読者投稿欄「東西南北」から採用。
  2. ^ 南安曇郡誌 第3巻下」

出典

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  • 「岡村千馬太先生」岡村千馬太先生刊行会、1967年
  • 中村一雄「気節の人岡村千馬太」

外部リンク

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関連項目

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