岩鼻二子山古墳

群馬県高崎市にあった古墳

岩鼻二子山古墳(いわはなふたごやまこふん)は、群馬県高崎市綿貫町にあった古墳。形状は前方後円墳。綿貫古墳群を構成した古墳の1つ。現在では墳丘は失われている。

岩鼻二子山古墳

出土石棺
(手前に蓋、奥に身。東京国立博物館展示)
所属 綿貫古墳群
所在地 群馬県高崎市綿貫町
(高崎量子応用研究所内)
位置 北緯36度18分3.54秒 東経139度4分40.20秒 / 北緯36.3009833度 東経139.0778333度 / 36.3009833; 139.0778333座標: 北緯36度18分3.54秒 東経139度4分40.20秒 / 北緯36.3009833度 東経139.0778333度 / 36.3009833; 139.0778333
形状 前方後円墳
規模 (推定)墳丘長120m
埋葬施設 刳抜式石棺
出土品 銅鏡ほか副葬品多数
築造時期 5世紀
史跡 なし
特記事項 墳丘は非現存
地図
岩鼻二子山 古墳の位置(群馬県内)
岩鼻二子山 古墳
岩鼻二子山
古墳
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概要 編集

綿貫古墳群の前方後円墳4基
古墳名 墳丘長 築造時期 史跡指定
普賢寺裏古墳 61.2m なし
不動山古墳 94m 5c後半 市史跡
岩鼻二子山古墳 120m? 5c末 (消滅)
綿貫観音山古墳 97m 6c後半 国史跡

群馬県南部、井野川下流の右岸地域に築造された大型前方後円墳である。一帯では前方後円墳4基(綿貫観音山古墳不動山古墳・普賢寺裏古墳・岩鼻二子山古墳(消滅))および円墳群が分布し、綿貫古墳群を構成する。1914年大正3年)に旧陸軍岩鼻火薬製造所(現在は高崎量子応用研究所)の造成工事の際に削平されている[1]

墳形は前方後円形で、前方部を南方向に向けた。墳丘周囲には盾形周濠が巡らされるほか、中堤・外濠の存在も推定される[1]。埋葬施設は砂岩製の刳抜式石棺で、棺身は長さ2.32メートル・幅0.92メートル・高さ0.545メートル、棺蓋は長さ2.47メートル・幅0.98メートル・高さ0.47メートルを測り、棺身には1対、棺蓋には2対の縄掛突起を付す[1]。副葬品としては五神四獣鏡・鍬先・鉄斧・鉄鉾・鉄剣2・鉄刀13・石製刀子11・石製品片1等が伝わる[1]

築造時期は、古墳時代中期の5世紀末頃と推定される。綿貫古墳群は普賢寺裏古墳→不動山古墳→岩鼻二子山古墳→綿貫観音山古墳の順の築造と推定されており、一帯における5-6世紀代の有力豪族の存在を示唆する古墳の1つになる。

墳丘 編集

地籍図から推定復元される墳丘の規模は次の通り[1]

  • 墳丘長:120メートル
  • 後円部 直径:68メートル
  • 前方部 幅:72メートル

関連施設 編集

脚注 編集

参考文献 編集

(記事執筆に使用した文献)

  • 「綿貫村」『日本歴史地名大系 10 群馬県の地名』平凡社、1987年。ISBN 4582490107 
  • 梅沢重昭「二子山古墳 > 岩鼻二子山古墳」『日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607 

関連文献 編集

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『新編高崎市史 資料編1 原始古代I』高崎市、1999年。 
  • 時枝務「失われた前方後円墳をめぐる近代史料 群馬県高崎市岩鼻二子山古墳の場合」『立正考古』第40号、立正大学考古学研究会、2000年、7-22頁。 

関連項目 編集