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崔寔(さい しょく、? - 170年ごろ)は、後漢政治家学者本貫涿郡安平県。『四民月令』『政論』を著したが、いずれも現存せず、逸文のみが残る。

生涯編集

後漢書』崔駰列伝によると、崔寔は安平県の名家の出身であり、祖父の崔駰も父の崔瑗(『文選』巻56に収める「座右銘」の作者)も文学者として高名だった。

桓帝のときに郎にあげられ、その後議郎を経て外戚梁冀司馬となった。このとき『東観漢記』の編纂に従事している。

その後、北方の五原太守の職につき、住民に紡織を教えるとともに夷狄の侵略に備えた。再び議郎に戻ったが、梁冀が粛清されると、連座して数年間官につけなかった。

その後、鮮卑対策のために推薦されて遼東太守になったが、任地にゆく途中で母が死亡し、その喪を行うために郷里に帰った。喪があけた後に尚書に就任したが、数ヶ月で病気と称して辞任した。建寧年間(168-172)に没した。

著作編集

『四民月令』(しみんげつれい)は、『礼記』月令にならって各月ごとに年中行事を記した書物で、月令類の代表的な書物のひとつである。後漢当時の豪族の生活を知るための重要な資料で、代に滅んだが、『斉民要術』『玉燭宝典』などに引用された文章が残っている。平凡社東洋文庫渡部武による日本語訳がある[1]

『政論』(『正論』『本論』とも)は、刑罰と徳教を併用することによって当時の危機的な状況を克服しようとした書物であり[2][3]仲長統はこの書を高く評価した。また、当時の豪族が巨億の富を築き、貧富の差が増大していることを記している[4]。『隋書経籍志ではこの書を法家に含める。北宋時にすでに失われていたが、『群書治要』『意林』ほかに載せられた文章が厳可均『全上古三代秦漢三国六朝文』の全後漢文巻46に集められている[5]。『後漢書』の記載では郎のころの作品のように読めるが、実際には遼東太守に就任した後の作品であることを厳可均は指摘している。

脚注編集

  1. ^ 渡部武『四民月令―漢代の歳時と農事』平凡社東洋文庫、1987年。ISBN 4582804675
  2. ^ 『後漢書』本伝の引用に「夫刑罰者治乱之薬石也。徳教者興平之梁肉也。」という
  3. ^ 田中麻紗巳『両漢思想の研究』研文出版、1986年、189-190頁。ISBN 4876360707
  4. ^ 川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫、2003年、109-110頁。ISBN 4061595954
  5. ^ 厳可均『全上古三代秦漢三国六朝文』全後漢文・巻46・崔寔2・政論。

参考文献編集