『三国史記』には以下のような話がみえる。
- 即位前(金蛙王の治世)、異母弟である朱蒙を殺害しようとしたが逆に逃げられた(朱蒙は紀元前37年に高句麗を建国)。その後、遅くとも紀元前7年には金蛙の後を継いで王となった。
- 紀元前6年、高句麗との国交を開くため人質の交換を要求したが断られ、その報復として5万の軍勢で侵攻するも、大雪の為に撤退。
- 13年、再び高句麗へ侵攻するも、高無恤(後の大武神王)によって撃退される。
- 22年2月、今度は逆に大武神王が率いる高句麗軍に攻め込まれ、帯素王はあえない最期を迎えた。帯素の従弟(名不詳)が一万人を率いて高句麗に降伏し絡氏の名を与えられてその支配下に入り、東扶余は滅亡[2]した。一方、帯素の末弟(名不詳)が数百人を率いて鴨緑谷に脱出し、曷思川の河畔で新しい国[3]を作って即位し曷思王と名乗った。
- 68年、曷思王の孫の都頭王が国ごと高句麗に降伏して、東扶余の後裔国は消滅[4]した。都頭王は高句麗に仕え、于台の官を授けられたという。
- ^ 遅くとも紀元前7年には在位していた。
- ^ 実際にはずっと後でも東扶余国は存在し歴史に登場する。ここまでの話は伝説であって史実の可能性は低いが、一時的に高句麗に併合されていただけとも解釈はできる。
- ^ 「曷思」(かっし)という地名は不詳で、3つの説がある。鴨緑谷が鴨緑江の渓谷を意味するならば、東扶余から西南にかなり離れた山岳地帯で高句麗の勢力圏内のようである。別の説としては、曷思(かっし)は東扶余建国の地である迦葉原(かしょうげん)と同じ「カシ」という地名であり、結局同じ元の場所に国を再建したとも解釈できる。またこの新しい国とは東沃沮の地(咸鏡南道)のあたりと推測する説もある。
- ^ 56年に高句麗は東沃沮を討伐して支配下においた。この時、討たれた東沃沮の国と曷思国が同じものを指している可能性もある。