平良兼賢
平良 兼賢(たいら かねかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北原氏、日向伊東氏の家臣。三ツ山[1]の小林郷地頭、後に三ツ山城主。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 伴兼賢、通称:彦十郎 |
官位 | 中務少輔 |
主君 | 北原兼守→伊東義祐 |
氏族 | 平良氏 |
史料には伴 兼賢とも散見されることから伴氏の子孫と思われるが、同じく伴氏を祖とする北原氏との縁戚関係は不明である。
略歴
編集永禄元年(1558年)、主君・北原氏13代当主・北原兼守が急死し家督問題が発生、伊東義祐がこれに介入してくると家中が二分される。兼賢は伊東方につき反対派と対立した。義祐が反対派の粛清を始めると兼賢もこれに関わり、兼守の叔父で飯野城主・北原兼孝父子を攻め滅ぼす。これにより、北原氏は義祐の推す北原氏庶流馬関田右衛門佐が家督を継ぎ、伊東氏が事実上乗っ取った。
永禄5年(1562年)、残る反対派である白坂下総介が守護・島津貴久に対し北原家再興を打診、貴久が応じ北郷時久・相良義陽も協力したため、伊東氏が奪っていた北原氏旧領は悉く取り返される。兼賢も右衛門佐共々、居城の三ツ山城より追われた。翌永禄6年(1563年)5月、相良義陽は島津氏と袂を分かち、再び伊東氏と手を結ぶと、逼迫した下総介らは後難を恐れて出奔、北原氏に綻びが生じた。これにより三ツ山城は再び伊東方に帰し、兼賢は伊東家臣として三ツ山城主に任じられた。
元亀3年(1572年)の木崎原の戦いを契機に伊東氏が衰退し始めると、天正4年(1576年)に三ツ山城は島津氏の城に帰したが、兼賢の所在や以後の事績は不明である。
脚注
編集出典
編集- 『えびの市史 上巻』(えびの市郷土史編さん委員会編)
- 「小林市史 第一巻」(小林市史編纂委員会)
- 『日向記』(宮崎県史 叢書)
- 『三俣院記 真幸院記 甑島諏訪神社御神事由緒』 鹿児島県史料拾遺(9) (鹿児島県史料拾遺刊行会)