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平賀 元相(ひらが もとすけ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての国人領主で戦国武将長州藩士。安芸国戦国大名毛利氏の家臣。

 
平賀 広相
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文16年(1547年
死没 正保2年9月3日1645年10月22日
改名 平賀小法師(幼名)→平賀元相
別名 通称:新四郎、兵庫頭、四郎兵衛
号:茂庵
戒名 宗安
官位 従五位下木工頭
主君 毛利元就輝元秀就
氏族 藤姓良房平賀氏
父母 父:平賀広相、母:不詳
兄弟 元相元宗
正室:福原貞俊の娘
元忠梨羽景宗
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生涯編集

永禄10年(1567年)に父の広相が死去すると家督を継いだ。毛利氏が最大勢力を築いていた頃には、平賀氏の所領も最大となり1万8,000石ほどを領する規模まで成長していた。また陪臣の身ではあったが豊臣秀吉に気に入られ、文禄5年(1596年5月12日従五位下に叙位され、豊臣姓を下賜された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍に味方して敗北し、毛利氏が防長2ヶ国に減封となると、平賀氏もそれに随行して移住し、所領も4,000石に削減され大幅な減封となった。所領が大幅に減ったため、元相はそれに苦悩して翌年の慶長6年(1601年)に家禄を返上して上洛、京都での隠棲生活に入った。

後に元相の嫡男・平賀元忠が300石の毛利氏家臣として復帰した。なおも京都に住み続けた元相であったが、寛永13年(1636年)に孫の平賀就忠からの要請を受けて萩に戻り、当時としては大変に長寿の99歳で大往生を遂げた。

平賀氏は元相の後も毛利氏の家臣、長州藩士として続いた。

参考文献編集