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毛利 輝元(もうり てるもと)は、戦国時代後期(安土桃山時代)から江戸時代前期にかけての大名安芸毛利氏の当主。

 
毛利輝元
Terumoto Mouri.jpg
絹本着色毛利輝元像(毛利博物館所蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文22年1月22日1553年2月4日[1]
死没 寛永2年4月27日1625年6月2日[1]
改名 幸鶴丸[1](幼名)→輝元→幻庵宗瑞[1](号)
別名 少輔太郎[1]通称)、羽柴安芸宰相、羽柴安芸中納言、大江輝元
戒名 天樹院殿前黄門雲巌宗瑞大居士[1]、天樹公[1]
墓所 沙麓山天樹院跡(山口県萩市堀内)[1]
官位 従五位下右衛門督右馬頭従四位下侍従参議従三位権中納言[1]
幕府 室町幕府 相伴衆江戸幕府
主君 足利義昭豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
長州藩藩祖
氏族 大江姓毛利氏
父母 父:毛利隆元[1]、母:尾崎局内藤興盛娘、大内義隆養女[1]
兄弟 輝元徳鶴丸[2]津和野局吉見広頼[2]
正室宍戸隆家の娘・南の大方[1]
側室児玉元良の娘・二の丸殿
秀就[1]竹姫吉川広正正室)、就隆
養子:秀元
養女:宍戸元秀小早川秀秋准尊室)
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豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦いの戦後処理により、秀就を初代として数えているため)。

目次

生涯編集

誕生編集

天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として安芸国吉田郡山城(現在の広島県)に生まれる[1]。母の尾崎局大内氏の重臣で長門守護代内藤興盛の娘であり、大内義隆の養女でもあった[3]幼名幸鶴丸(こうつるまる)と名付けられた[1]

幸鶴丸が誕生した天文22年は、天文19年の井上元兼とその一族の討伐を契機に家中掟法の整備、それによる家中統制が行われ、毛利氏の「国家」が成立していた[4]。また、陶晴賢が主君・義隆を討った大寧寺の変を経て、祖父・毛利元就の権力基盤が強化された後でもあった[4]

天文23年、防芸引分(大内氏・陶氏との断交)が行われ、翌年には厳島の戦いで陶晴賢を討った。その後、防長経略も行われ、毛利氏は大内氏と陶氏を滅ぼした。さらに尼子晴久を惣領とする尼子氏との戦いも行われ、石見国で対峙が続いた。それゆえ、父の隆元は断続的に出陣を繰り返し、幸鶴丸のもとに落ち着くことはなかった[5]

家督相続と二頭体制編集

 
毛利元就

永禄6年(1563年)8月4日、当主である父・隆元が尼子攻めのさなか、安芸佐々部で急死した[4]。そのため、幸鶴丸が11歳にして家督を継承するが、元就が後見して政治・軍事を執行した。この時期、安堵状・宛行状・官途状・加官状類は元就から発されており、幸鶴丸は形式的には家督を継承したものの、その権限は保留状態にあった[6]

永禄8年(1565年)2月16日、幸鶴丸は13歳のとき、室町幕府の13代将軍足利義輝より「輝」の偏諱を受けて元服し、輝元と名乗った[7]。もっとも、輝元が将軍の偏諱を受けることができたのは元就が幕府に働きかけたからであり、永禄7年12月以前から元服の準備が進められ、同年半ばから幸鶴丸の名を据えた花押の文書がこの頃から増加したのもその一環であったと考えられる[8]

これにより、輝元は事実上の当主となり、幸鶴期には全く発給していなかった官途状・加官状類が輝元の名でも発給されるようになり、輝元自身の当主としての権限も拡大された[9]。だが、輝元と元就の連署の書状もあり、元就の後見が必要となる場面もあった[10]

他方、元就自身は二頭体制に移行後、輝元の当主件権限が拡大されるにつれ徐々に権限を移行し、最終的に隠居を考えていた。だが、永禄10年(1567年)に輝元は15歳の時、隠居しようとする元就に隠居しないように懇願し、その隠居を断念させた[11]。15歳の輝元には毛利氏の領国を円滑に運営させてゆく自信がなく、輝元の名で領主たちの盟主たりうることは困難であった[11]。そのため、元就が死没するまで、輝元と元就の二頭政治体制が続くことになる[12]。また、叔父の吉川元春小早川隆景の2人、毛利氏庶家筆頭の福原貞俊口羽通良を合わせた4人、いわゆる「御四人」が輝元の政務を補佐した[13]

永禄8年3月、輝元は毛利氏による尼子攻めに出陣し、4月の尼子氏の本拠地・月山富田城への総攻めで初陣を飾る(月山富田城の戦い[14]。この戦いにより、永禄9年(1566年)11月に尼子氏の当主・尼子義久が降伏し、毛利氏にとって長年の宿敵たる尼子氏は滅亡した[15]。その後、永禄10年2月に輝元は吉田郡山城へ凱旋した[15]

尼子氏残党の蜂起と大内輝弘の乱編集

永禄12年(1569年)6月、尼子勝久山中幸盛らが尼子氏の残党が蜂起し、但馬の山名祐豊の支援を受け、毛利氏の支配する出雲に侵入した[16][17][18]。このとき、毛利氏の主力は豊後の大友氏との戦闘のため、九州北部に展開中であり、それを狙った蜂起であった。尼子氏の残党が出雲に侵入すると、尼子氏の旧臣が集結し、7月中旬には月山富田城を攻撃した。

10月、旧主家・大内氏の残党である大内輝弘が大友氏の援軍を得て、周防に侵入した[17]。これには大内氏の遺臣らも加わり一気に勢力が拡大し、毛利氏の領国支配を乱すこととなった(大内輝弘の乱[17]

輝弘の侵入は6月の尼子氏の出雲侵入に呼応したものであり、大友氏の策略によるものであった。大友氏とは永禄7年に幕府の仲介で和睦していたが、永禄9年になると大友氏が毛利氏に属する筑前の有力国人・高橋鑑種への攻撃が始まった[19]。その後、同じ筑前の有力国人・立花鑑載が毛利氏に付き、それに対して大友氏が立花氏の居城・立花山城を攻め落とすなど、筑前では毛利氏と大友氏の攻防が続いていた(多々良浜の戦い[19]

毛利氏は輝弘ら大内氏残党の侵入に対処するため、九州に展開していた軍勢を撤退させ、同月のうちに輝弘ら大内残党を討伐した。だが、この大内輝弘の乱により、筑前の高橋鑑種は不利な状況となり、輝元・元就・元春・隆景の連署起請文では「毛利氏が鑑種を見捨てない」ことを約束していたにもかかわらずそれを反故にする形となり、翌年に降伏を余儀なくされた[19]。毛利氏は筑前国から勢力を失ったほか、豊前国でも門司城などの一部を残して拠点を失い、北九州における毛利氏の勢力は大きく減退した[20]

永禄13年(1570年)1月、輝元は大内輝弘の乱を鎮圧したのち、尼子氏残党軍を討伐するため、元春、隆景らとともに吉田郡山城より大軍を以て出陣した[21][22]。2月に布部山の戦いで勝利したのをはじめ、次々と尼子方を打ち破り、元亀2年(1571年)8月までに山陰から駆逐した[23]。だが、尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏の残党勢力は再興を諦めず、毛利氏に対して抵抗を続けることとなる。

織田氏との関係構築・敵対勢力との戦い編集

 
織田信長

永禄8年5月、輝元が元服して3ヶ月後、京では将軍・足利義輝が三好義継三好三人衆松永久通らに討たれる永禄の変が発生し、新たな動乱の火種となった。その後、義輝の弟・一条院覚慶は還俗して足利義昭を名乗り、永禄10年に聖護院門跡の道増を使者とし、輝元と元就に支援を求めた[24]。この道増は近衛尚通の子で、さらに兄の近衛稙家は義輝の義父であり、義輝の使者として幾度か西国へ下向していた[24]。義昭は道増と元就のルートを活用し、尼子氏を滅ぼして上洛が可能となった毛利氏を頼ろうとしていた[24]

だが、元就は無用な戦線の拡大を望まず、その判断で義昭の要請を断った[25]。同様の要請は越後の上杉輝虎(謙信)、越前の朝倉義景、尾張の織田信長らにも行われたが、上杉輝虎は要請に難色を示し、朝倉義景も上洛に踏み切ろうとしなかった。結局、織田信長がこの要請に応じ、永禄11年9月に義昭とともに上洛、義昭は朝廷から将軍に任命された。

永禄12年半ば以降、毛利氏と織田氏の交流が始まった。同年6月に毛利氏の主力が九州北部に出兵中、但馬山名氏の支援を受けた尼子氏残党が出雲国に侵攻した際、信長は木下秀吉坂井政尚と丹波へと出兵させて毛利氏を支援した[16]。また、信長は敵対する阿波・讃岐を支配する三好氏に対抗するため、毛利氏と大友氏を調停し、和睦させた[16]

永禄13年3月以降、輝元と信長の通交が始まるようになる。3月23日付の書状では、輝元が朝廷から右衛門督に任ぜられたことに関して、義昭の御内書が発給されたことを信長が祝している[26]。また、毛利氏が要請した浦上氏の攻撃に関して、信長が時期を見て出兵することを約束したことも記されている[26]

元亀2年4月、輝元が元就との連署で信長に書状を発している。その内容は尼子氏に与して出雲・伯耆沿岸部に襲来した丹後・但馬の海上勢力に対して、将軍から停止命令を発給してほしいと要請したものである[26]。信長は将軍にこれを奏達し、信長自身も命令を発している[26]

同年6月、信長が輝元・元就宛に書状を送っている[27]。その内容は、阿波の三好氏家臣・篠原長房が備前国児玉に襲来し、将軍から停止命令を発給してもらえるように輝元・元就が要請したことに関して、長房は義昭や信長と敵対状況にあり、停止命令は効果がないというものであった[27]

同月14日、輝元を後見し続けてきた元就が死去した[22]。このとき、輝元は布部山の戦いの後も出雲に在陣中であったが、新山城攻撃を目前に「元就、危篤」の報が入り、元春にその場を任せ、隆景と共に元就の病床に駆けつけたほどであった。元就の死により、輝元は毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。

9月、信長は元就死去の弔意を隆景宛ての書状で示している[28]。その書状には、「讃州表発珍重に候」とあり、毛利氏が三好氏の支配する分国へ出兵を図っていたことも記されている[28]

輝元ら毛利氏は大友氏、尼子氏、三好氏、浦上氏などに戦いを有利に進めるため、将軍の権威を利用し、その過程で信長を経由しなければならなかった[28]。信長も表面的には協力姿勢を見せ、毛利氏と織田氏には軍事同盟が成立していたが、信長自身のなかでは毛利氏への優先度は低かった[28]

そのため、輝元は独力でこれらの敵を相手にせねばならなかった。輝元は元亀2年の元就没後すぐ、尼子勢を領内から駆逐し、また三好氏の分国へも侵攻した[28]。その後、元亀3年(1572年)には浦上氏とも和睦を成立させ、事実上屈服させた。これにより、毛利氏はその包囲網を瓦解させることに成功した[28]

義昭の処遇を巡って編集

 
足利義昭

永禄13年1月、信長は義昭に殿中御掟に追加の5ヶ条を加えた。その第一条は諸国の大名との交流に関して制限を加えるもので、義昭が御内書を出す場合には信長の添状を必要とするものであり、その効力に規制を加えるものであった[29]。これを機に信長と義昭の関係は悪化していった[29]

元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に殿中掟書の徹底を求めるため、意見17ヶ条を出した[30]。その中では義昭の御内書の無断発給を問題視し、信長は同盟関係にあった毛利氏との交流も監督下に置こうとした[30]

元亀4年(1573年)2月9日、輝元は義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に任ぜられ、同時に室町幕府の相伴衆ともなった[30]。これは輝元を与党に引き入れ、毛利氏の勢力を味方に引き入れようとする義昭の工作でもあった[30]

信長も義昭の動きに対抗して、輝元に接近し、毛利氏との同盟関係を維持しようとした[31]。義昭は信長に対抗するため、6月に毛利氏に対して兵糧料を要求したが、輝元は信長との関係から支援しなかった[31]。そして、7月18日に義昭は槇島城の戦いに敗れ、京から退去した。信長は輝元に7月13日付の書状で、「自身が天下を静謐し、将軍家のことに関しては輝元と万事相談してその結果に従うこと」を約束している[31]

義昭追放後、輝元と信長の関係は続いた。そのため、9月7日付の御内書では、毛利氏が信長と懇意にしていることや、かつて毛利氏が将軍家を疎かにしないという内容が反故にされていることが批判されている[32]。他方、輝元が秀吉に充てた同日付の書状では、信長と義昭が和解し、義昭が京に帰還できるよう仲介を試みている[33]

輝元はまた、義昭と信長の和解を仲介する代わりに、但馬山名氏の支援を受けて反抗を続ける尼子氏残党に対抗するため、織田氏に但馬への侵攻を要請しており、信長も同意していた[33]。輝元にとってもまた、織田氏との同盟は領国を守るためには重要であり、義昭のために信長と敵対して上洛するより、信長の力を利用する道が最適であった[33]。他方、輝元は信長と義昭の仲介もあきらめておらず、両者の関係をとりもつため尽力した。

天正元年11月、義昭が和泉のに落ち着くと、信長からは羽柴秀吉と朝山日乗が、輝元からは安国寺恵瓊林就長が派遣され、義昭に信長と和解したうえでの帰京を説得した[34]。信長自身も義昭の帰京を認めていたが、義昭が信長からの人質を求めたため、交渉は決裂した[35]

輝元は義昭の処遇に関して、信長と義昭を仲介したが、それは決して室町幕府復興のために尽力したわけではなかった[35]。輝元が怖れていたのは、追放された義昭が毛利氏の領国に下向し、織田氏と全面戦争に突入することであった[35]。信長もまた、義昭の追放で畿内が動揺している今、輝元が義昭を奉じて織田氏との全面戦争に踏み切ることは避けたかったと考えられる[35]

浦上氏・三村氏との戦い編集

 
宇喜多直家

輝元と信長の関係は依然として保たれていた。だが、信長は毛利氏との全面戦争は避けていたが、毛利氏を牽制するために重要な布石を打った。それは天正元年12月に浦上宗景に備前・播磨・美作の統治を認める朱印状を出したことであった[35]

浦上宗景は備前・播磨・美作に広域的権力を保持し、永禄末年から毛利氏と交戦していたが、元亀3年に毛利氏に従属する形で和睦していた[35]。それゆえ、浦上氏は毛利氏の従属下にあり、備前・播磨・美作は毛利氏の領国であると考えられていた[35]。だが、信長が宗景に備前・播磨・美作の統治を認めたことは、毛利氏にとっては想定外であった[35]。備前・播磨・美作が毛利氏の領国であるとするならば、所領の安堵は輝元の権限であり、信長にその権限はなく、信長の行為は備前・播磨・美作を織田氏の分国に加えるに等しい行為であった[35]

輝元と同様に、浦上宗景と対立する宇喜多直家にとっても、宗景の備前・播磨・美作における統治権を認めることはできなかった[36]。直家は永禄12年(1569年)以降、宗景の従属下を脱してほぼ対等の関係にあったが、信長の朱印状によって宗景の備前・播磨・美作の統治権を認めるということは、宗景の支配下に入ることを自ら認めることに他ならなかった[36]

天正2年(1574年)3月以降、宇喜多氏が浦上氏と敵対関係に入ると、5月に輝元は直家への支援を表明した[36]。輝元としては、宗景の毛利氏への態度が二転三転して不信感を募らせたことや、宇喜多氏が信長の勢力拡大に対する防潮堤の役割を果たすと考えたことが、直家への支援に繋がったと考えられる[36]

一方、宗景は輝元や直家に対抗するため、毛利氏と長らく敵対していた大友氏から支援を受け、さらに毛利氏から離反した備中の三村元親と連携しようとした[37]三村氏は毛利氏に軍事的には従属していたものの、自立性の高い国人領主であった[37]。元親は父で先代の当主・家親を直家に殺害されており、輝元がその直家の支援に踏み切ったことが、毛利氏からの離反に繋がった[38]。また、元親は浦上氏を通じて信長から支援があると考えていた[38]。ただし、家親の叔父・親成は毛利方にとどまっており、毛利氏の調略があったと考えられている[39]

天正3年(1575年)6月、毛利氏は三村元親を攻め滅ぼし、同年9月には浦上宗景が居城・天神山城から追われて播磨に逃れ、この軍事衝突は毛利氏の勝利に終わった[39]。三村氏の旧領は毛利氏が直接的に支配する地域に入り、輝元は元就を上回る領域支配者となった[40]

他方、浦上氏や三村氏が期待していた信長から援軍は送られなかった[38]。信長は毛利氏を牽制したものの、毛利氏との断交はまだ早いと考えており、表面的に継続していた軍事同盟を維持する形を取った[41][39]

輝元は備前・播磨・美作を織田氏の領国に組み込もうとする信長の目論見を砕こうとしたが、信長との直接対決は望まず、あえて信長の朱印状発給に反発した直家を宗景と戦わせる道を選らんだ[42]。輝元は織田氏との軍事同盟を維持する道を選んだが[42]、その過程で毛利氏に長年付き従ってきた三村氏の離反もやむを得ないと考えていた推測される[39]

とはいえ、浦上氏の領国が消え、宇喜多氏の領国を含む毛利氏の領国は織田氏の領国と直接境界を接することとなった[40]。これにより、信長との対決は目前に迫った[40]

芸但同盟と尼子氏残党軍との戦い編集

但馬では、山名氏が尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏残党を支援し、毛利氏と敵対していた。かつては織田氏が毛利氏救援のために但馬に出兵したこともあった[16]。他方、信長は毛利氏にとって敵対勢力であるはずの尼子氏残党に対して、柴田勝家を通じて密かに接触を図っていた[43]

天正3年1月、輝元は尼子氏を支援していた但馬の山名祐豊堯熙父子との同盟、いわゆる芸但同盟(芸但和睦)を成立させた[44]。一方、信長は隆景に宛てた7月6日付の書状で、表面的には芸但同盟の成立を認めているが、但馬を織田氏の分国にしようとしていた思惑を隠し切れていない部分もある[44]

但馬山名氏は、天正元年11月に因幡山名氏の山名豊国が毛利氏に従ったことにより、毛利氏に苦戦を強いられていた[44]。また、織田氏の勢力が但馬に浸透することで、山名氏の但馬国主としての地位や因幡に対する宗主権を否定されることを嫌ったと考えられている[45]

輝元も但馬を織田氏分国にしようとする信長の野心を察知し、天正2年以降に信長の介入で勃発した浦上氏と三村氏との争いや、加えて信長が尼子氏と接近しているのではないかという疑心もあり、あえて山名氏との同盟の成立に踏み切ったと考えられる[45]。芸但同盟の成立により、輝元は但馬を毛利氏の影響下に置いた[45]。とはいえ、芸但同盟成立後も但馬の田結庄氏ら尼子方国人は屈服せず、内乱が続いた[45]

また、芸但同盟の成立により、尼子方の山中幸盛は山名氏の支援を受けることができなくなり、6月に因幡国の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠点を移した[46]。これに対し、同月に輝元は元春と隆景に大軍を以て因幡に侵攻させ、8月に毛利軍は若桜鬼ヶ城を包囲したが、山陽方面で織田氏との緊張が高まったこともあって、10月に若桜鬼ヶ城の周辺に多数の付城を築いて撤退した[47][48]

織田氏との同盟破棄・信長との決別編集

天正4年(1576年)2月、信長によって都を追われた将軍・足利義昭が紀伊国畠山領を経て、毛利氏領国の備後国・に動座してきた[49][50]。同月8日には義昭は元春に命じて、輝元に幕府の復興を依頼した[50]。だが、この動座は毛利氏に何一つ連絡なく行われたものであり、信長との同盟関係上、義昭の動座は避けなければならない事態であり、輝元はその対応に苦慮した[49][51]

輝元と信長は先の軍事衝突後、同盟を維持する方向で話を進めていた[52]。ところが、信長は播磨に逃れた浦上宗景を庇護して軍事支援を行い、先の衝突では浦上氏・三村氏の支援に消極的だったにもかかわらず、一転して方針を転換させ、毛利氏との軍事対決も辞さない態度を示した[53]。また、先の衝突が信長の予想に反して早期決着したため、信長は毛利氏と宇喜多氏の同盟を警戒するようになっていた[53]。さらに、天正3年以降、信長は毛利氏への包囲網を構築するため、近衛前久を九州に下向させ、大友氏伊東氏相良氏島津氏の和議を図ろうとしていた[54]

輝元と信長の関係は悪化していたとはいえ、表面上両者の同盟関係は継続されており、 義昭を受け入れないことは信長とも約束されていたことで、それを破ることは重大な背信行為であった[55]。義昭の下向は先の衝突以降、浦上氏の領国という緩衝地帯がなくなった両者の軍事的緊張が高まっていた中で、決定的な亀裂を生じさせた[49]。義昭自身は信長が宗景に備前・播磨・美作の統治を認める朱印状を出したことや、宗景が播磨へ逃亡して以降の対応から、信長の輝元に対する「逆心」は明確であると述べており、同盟は既に破綻していると考えていた[49]

輝元は信長と義昭との間に揺れ動いた末、4月に義昭の要請に応じ[56]、5月7日には反信長として立ち上がり、13日に領国の諸将に義昭の命令を受けることを通達し、西国・東国の大名らにも支援を求めた[57]。これにより、輝元は信長との関係を断ち、この時をもって織田氏との同盟を破棄することとなった[56]。輝元自身も信長の領国への介入から疑心に駆り立てられ、信長との関係修復が困難であると判断したと考えられている[56]

輝元は義昭の庇護を決めると、鞆に御所を提供して保護した。輝元に庇護されていたこの時期の室町幕府は、「鞆幕府」とも呼称される[58]。義昭を筆頭とする鞆幕府はかつての奉公衆など幕臣や織田氏と敵対して追われた大名の子弟らが集結し、総勢100名以上から構成され、信長も無視できない勢力であったという指摘もある[58]。輝元自身も鞆幕府において、義昭から将軍に次ぐ地位たる副将軍に任じられている[59][注釈 1]。このとき、輝元は義昭から足利氏の家紋たる桐紋(かつて信長にも与えられた)も与えられた[60]

三者同盟の成立と石山救援編集

輝元が義昭を鞆において庇護することを決めたことは、諸国の情勢に大きな変化を与えた。 義昭は輝元の庇護を受け、反信長勢力を糾合し、幕府の復興に尽力した。

4月、輝元が義昭の庇護したのと同時期、織田氏と大坂の石山本願寺と和議が敗れ、戦闘が再開された。石山本願寺は紀州の雑賀衆の援軍も得て、初戦は織田軍に勝利を収めた。

同月、輝元と同様に信長と同盟関係にあった北国の上杉謙信が、本願寺との和平交渉を開始し、5月中旬に講和を成立させた[61]。謙信が本願寺と講和した背景には、義昭が輝元の庇護下で鞆に落ち着き、義昭自身も謙信に幕府再興の援助を求めたからだとされる[61]

謙信と本願寺との講和によって、毛利氏、上杉氏、本願寺による三者同盟が結成され、第三次信長包囲網が築き上げられた[62]。5月になると、輝元は謙信に上洛を呼びかけ、6月に謙信は隆景に対して、来春には上洛するように伝えている[62]。また、義昭も6月に謙信と甲斐武田勝頼に使者を出し、輝元と力を合わせて信長を討つように命じている[63]

本願寺は初戦に勝利を収めていたが、5月に信長自らが出陣すると劣勢となり、やがて石山を水陸から織田軍に包囲された。本願寺は輝元に支援を求め、輝元も反信長同盟が崩れることを危惧し、救援を決めた[63]。輝元は本願寺救援のため、村上水軍などからなる毛利水軍を派遣し、織田軍の海上からの包囲を破ろうとした[63]

7月13日、毛利水軍は織田水軍を大阪湾木津川河口(現在の大阪市大正区に位置する木津川運河界隈)で破り、本願寺に兵糧や武器など物資を運び入れることに成功した(第一次木津川口の戦い[56]。この戦いで織田水軍は毛利水軍の焙烙といった火器に対抗できず、真鍋貞友ら水軍の将が多数討たれるなど大きな損害を被り、輝元は強力な海軍力を背景に瀬戸内海一帯の制海権を保持した。

尼子氏残党軍への勝利・最大版図の獲得編集

尼子軍は因幡国内において孤立し、天正4年(1576年)5月頃に若桜鬼ヶ城を退去し、尼子氏の勢力は因幡国から撤退した。

天正5年12月、織田方の羽柴秀吉が宇喜多直家の支城である播磨国上月城を攻略すると、尼子勝久と幸盛がその城に入った[64]

天正6年2月中旬、三木城別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方した[64][65][66]。輝元はこれを好機とみて、4月に元春・隆景らに大軍を以て播磨に進軍させ、自身も備中高松城に入った。その後、同月18日(5月24日)に毛利氏は尼子再興軍が籠城する上月城を包囲する[67]

5月、織田方の秀吉が荒木村重らと共に1万の軍を率いて上月城の救援のため、高倉山に布陣した[68]。だが、6月に毛利氏は高倉山で織田軍を破り、書写山まで撤退させ、上月城は孤立無援の状態にした[69]

そのため、7月5日に尼子再興軍は降伏し、毛利氏はその条件として、尼子勝久及び弟の氏久は切腹させ、他多数の者を処刑した。山中幸盛は許され、輝元の在陣する備中高松城へ連行されたが、その途中で殺害された[70][注釈 2]

上月状の戦いの勝利により、輝元は安芸周防長門備前備中備後美作因幡伯耆出雲隠岐石見のみならず、讃岐、但馬、播磨、豊前の一部を領有し、元就の時代をはるかに上回る領土を支配する大名となった[70]。また、輝元は足利義昭を擁して鞆幕府を庇護することで、「副将軍」としてその名を天下に知らしめ、陸海の戦闘で織田氏に勝利し、信長に対抗しうる最大の勢力となった[70]

輝元の上洛計画編集

天正6年10月、摂津国を支配していた荒木村重が織田氏に反旗を翻した[70]。輝元は6月の時点から村重に調略を進めており、それが成功したのであった[70]。また、村重は信長から摂津の支配のみならず、播磨の諸勢力との取次も任されていた[70]

村重の離反は播磨の諸勢力が毛利氏に同調する契機となり、御着の小寺氏、志方の櫛橋氏、野間の在田氏、長水の宇野氏らが毛利氏側に付いた[71]。村重のもとには黒田孝高が説得に赴いたが、逆に幽閉されている。これにより、輝元は播磨を混乱状態に追いやり、その影響力を播磨に浸透させた[71]

だが、輝元には宇喜多直家の存在という誤算もあった。播磨の諸勢力の中で、龍野の赤松広秀や置塩の赤松則房も毛利氏に味方したいと申し出たが、直家が反対し、両者は宇喜多勢が攻略することとなった[71]。直家が反対した理由に関しては、赤松氏の領土が宇喜多氏の領土に隣接しており、その支配下に置いておきたかったからだとされる[71]

11月4日、輝元と本願寺に対して、朝廷から信長と講和するよう正親町天皇の勅命が下された[72]。信長としては村重を再三説得するための時間稼ぎであったが、両者はこの勅命による講和を拒否した[72]

このような状況下、輝元自らが軍勢を率いての上洛が計画されるようになった[71]。義昭は村重の調略に関与していたが、輝元に11月24日付の元春宛書状でこの機を逃さずに上洛するように命じている[71][72]。このとき、同盟関係にあった武田勝頼からも、すぐさま上洛を求められている[71][72]

12月、輝元は出陣を決意し、毛利氏有利のこの好機に乗じて上洛しようとした[71]。そして、輝元出陣の日は天正7年1月16日と定められ、諸将に下令された[73][74]。輝元はそれに伴い、武田勝頼に徳川家康を攻撃し、織田氏の兵力を引き付けるよう要請している[74]

だが、輝元の上洛計画は期日を過ぎても実行には移されなかった[75][74]。毛利氏有利の状況下にあるにもかかわらず、上洛計画が実行に移されなかったのは、大友義鎮に唆された市川元教杉重良による謀反が勃発し、毛利氏内部が動揺していたことにあった[75][74]。また、備中・美作の国人領主に対して、信長の調略の手が伸びていたこともあった[75]

輝元に対して、その上洛を反対したのは隆景であったと考えられている。輝元が祖父・元就の支配地域以上の領域を手に入れ、将軍・義昭を庇護する副将軍として有頂天となり、 信長の調略や家中の謀反も顧みずに上洛を考えている姿を見て、隆景は危機感を覚え、これ以上の戦線拡大は危険と判断したからだとされる[76]

結局、輝元は隆景の説得を受け入れ、上洛を断念した[77]。義昭からその後も再三にわたり出陣を命じられたが、輝元が動くことはなかった[77]

宇喜多氏・南条氏の離反、但馬・因幡からの退潮編集

輝元が上洛を断念したことは、備前の宇喜多氏、伯耆の南条氏といった織田氏との境界最前線に立つ領主たちに動揺を与えた[77]。彼らは毛利氏がその権益を守護してくれる存在として、織田氏との戦いで最前線に立って戦ってきた[77]。だが、輝元が上洛を断念したことは、輝元が織田氏を恐れ、家臣団を団結させる能力が欠如しているという認識を与えた[77]

天正7年(1579年)6月前後、備前の宇喜多直家が信長に通じて、毛利氏から離反した[78][79]。直家が毛利氏から離反した理由に関しては、輝元が上洛を断念したために播磨へ進出する野望が実現できなくなったこと、加えて信長から備前と美作の領有を確約されたことにあった[78]。直家の離反により、毛利氏と織田氏の争いは、織田氏有利に傾いていった[80]

同年9月、伯耆の南条元続が宇喜多氏に続いて毛利氏から離反し、織田方についた[80][79]。南条氏は山名氏の下で守護代を務めるなど、伯耆を代表するような国人であった[81]。だが、輝元の上洛断念により、宇喜多氏と同様に織田氏との最前線に置かれていた南条氏に対する毛利氏の支援に不安を覚えたために、織田氏に通じることとなった[81]

南条氏の裏切りにより、西伯耆と因幡、但馬を結ぶ連絡ルートが遮断され、但馬の毛利方勢力は織田氏に抵抗を断念せざるを得ない状況となった[81]。但馬同様に西伯耆とのルートを遮断された因幡でも、翌年から羽柴秀吉による攻略が進められるようになった。

信長包囲網の瓦解・秀吉との攻防編集

 
備中高松城の水攻め

9月、輝元の上洛による援軍をあてにしていた荒木村重は織田方との戦いで不利に陥り、有岡城から退去を余儀なくされた。また、同年11月に有岡城が落城し、その他諸城も織田方の手に落ち、村重は毛利氏領国へと逃亡した。また、輝元が上洛を断念したことはまた、自らが救援するはずだった三木の別所氏、摂津の荒木村重のみならず、大阪の石山本願寺を見捨てることを意味していた[78][82]

天正6年11月6日、毛利水軍は本願寺に物資を運び入れるため、石山に再び来援したが、九鬼嘉隆鉄甲船を用いた織田水軍に敗北を喫した(第二次木津川口の戦い[83]。以後、毛利氏は淡路島以西の制海権は保持したままであったが、大阪湾は織田水軍に封鎖された[84]。本願寺は輝元自らの援軍も見込めなくなったこともあり、次第に戦況が不利となっていった[78]

また、輝元と同盟関係にあった上杉謙信が天正6年3月に死去すると、その2人の養子・上杉景勝上杉景虎が跡目を争う、御館の乱が勃発した。この乱を制した景勝もまた信長との抗争を継続したが、上杉氏は北陸方面で大きく勢力を減退し、信長包囲網が瓦解し始めてきた。

天正8年(1580年)1月、織田軍の羽柴秀吉が三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害した(三木合戦[80]。それを受けて、3月には本願寺は織田氏との勅命による講和に応じ、顕如らは石山を退去することとなり、摂津における毛利方勢力は壊滅した[80][85]。さらに、5月までに但馬の毛利方勢力も織田氏に降伏した[80]

天正8年5月、羽柴秀吉は播磨を平定し、播磨の毛利方勢力も壊滅した。その後、同じく但馬を平定した弟の秀長と合流し、因幡へと侵攻した[81]。秀吉は因幡の諸城を落とし、同年6月には因幡守護の山名豊国は降伏を余儀なくされた[81]

同年8月、輝元が吉川元春を主力とする軍勢を南条氏に向けると、因幡では豊国の家臣らが毛利氏に内通し、豊国を鳥取城から追放した[81]。その後、毛利氏は名将・吉川経家を城番として因幡に派遣し、天正9年(1581年)3月に鳥取城に入城させた[81]。だが、同年7月から秀吉は鳥取城の兵糧攻めを開始したため、城内は深刻な兵糧不足に陥り、同年10月に経家は自害を余儀なくされ城は開城した[86][87]

天正10年(1582年)3月、輝元と協力関係にあった甲斐の武田勝頼もまた、甲州征伐で織田氏に敗れ、自害し果てた[88]。武田氏滅亡により、信長包囲網が瓦解し、輝元ら毛利氏はさらに不利な状況に追いやられた[88]。また、輝元は四国の長宗我部元親とも同盟関係にあったが、信長は長宗我部氏討伐のため、三男・織田信孝に四国への出兵を準備させていた。

4月、秀吉が備中に侵攻したが、毛利氏の軍事動員能力は天正4年から7年続いた戦いで限界に達しつつあり、備中諸城には毛利氏の支援もなく、落城するか調略されるかにより降伏した[89]。そして、同月に毛利氏の忠臣で勇名を馳せていた清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃し、5月には水攻めを行った(備中高松城の戦い[90][88]

これに対し、同月に輝元は元春・隆景らと共に総勢5万の軍勢を率い、高松城の救援に向かった。そして、輝元は猿掛城に布陣し、高松城に近い岩崎山(庚申山)に元春、その南方の日差山に隆景を布陣させ、秀吉と対峙する[91]。だが、輝元らは積極的な行動を起こせず、5月21日になって輝元は元春とともに織田勢と対峙する位置に陣を移したほどだった[91]

援軍としてやってきた毛利氏が動けなかった理由としては、秀吉の毛利水軍に対する調略により、4月10日前後に来島水軍塩飽水軍が離反したことにあった[91]。これにより、毛利氏は制海権を失い、陸路からのみの補給に頼らざるを得ず、そのために絶望的に物資が不足しており、輝元の本陣でさえ物資が不足する有様であった[92]。また、毛利勢は水攻めにされた高松城に対して、船を使って物資を救援しようとしたが、その船すら入手できない状態であった[90]

そのうえ、5月末には信長自らが毛利氏討伐のため、京の本能寺で備中高松城に赴く準備をしており、毛利氏は危機的な状況に陥った[93][88]

信長の死・秀吉との講和編集

 
豊臣秀吉

6月2日、高松城攻防戦の最中、信長が京において明智光秀によって討たれる、いわゆる本能寺の変が発生する[88]。いち早く情報を得た秀吉は、光秀の謀反による信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、安国寺恵瓊に働きかけた[88]。輝元ら毛利側は秀吉から毛利氏の諸将のほとんどが調略を受けていると知らされ、疑心暗鬼に陥り、講和を受諾せざるを得なかった[94]

6月4日、備中高松城は講和により開城し、城主の清水宗治は切腹した[88]。また、中国地方の毛利氏支配領域に関しては、秀吉が当初割譲を要求していた美作・備中・伯耆・出雲・備後5ヶ国から、美作・備中・伯耆の三国を割譲することで妥協された。ただし、この時結ばれたのは当面の戦闘を中止するとした停戦協定に過ぎず、輝元と秀吉の講和ではないとする見方もある[93]。輝元は信長の突然の横死、清水宗治の犠牲と引き換えに危機を脱する形となった[93]

秀吉はその日のうちに撤退し、毛利方が本能寺の変報を入手したのはその翌日の5日であったことが、紀伊雑賀衆からの情報であったことが吉川広家の覚書(案文)から確認できる[95]。この時、元春などから秀吉を追撃すべきいう声もあがったが、隆景は誓紙を交わした以上は講和を遵守すべきと主張したため、輝元も追撃を断念した[96]

6月9日、信長の死を知った義昭は隆景に対し、帰京するために備前・播磨に出兵するように命じたが、輝元は講和を遵守して動かなかった[97]。毛利氏は上方の情報収取は行ったが、領国の動揺を鎮めることで精いっぱいであり、進攻する余裕はなかった[98][99]

6月13日、秀吉が山崎の戦いで光秀を破ると、輝元は秀吉に戦勝を祝うため、安国寺恵瓊を使者として派遣した[98][100]。だが、輝元は秀吉の戦勝を祝したものの、諸方面の戦闘では譲らず、美作と伊予では羽柴方との戦闘を継続した[98]

また、秀吉と柴田勝家が覇権を巡って火花を散らし始めると、輝元は双方から味方になるよう誘いを受けた。この間、義昭は勝家から自身の帰京の約束を取り付けると、毛利氏に勝家を支援させるように動き始めたが、輝元は両者の抗争を静観し続けた[101]

天正11年(1583年)3月、勝家が近江に出陣すると、輝元とともに秀吉を挟撃しようとし、義昭にすすめて輝元に出兵を督促させた[102]。これを受け、4月に義昭は毛利氏に柴田方に加勢し、秀吉を攻撃するように命じた[101][103]。だが、輝元は「どちらが勝利するか判断できない」という元春や隆景らの意見を重視し、両者との通交を維持して情勢を見極める方針を打ち出した[101][103]

同月、秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家に勝利すると、秀吉は毛利氏に対して強硬な姿勢を取り、再侵攻をほのめかすようになった[104]。秀吉が恵瓊に宛てた5月7日付の書状では、輝元に美作・備中・伯耆の三国を割譲することなどを条件に講和を迫り、もしこれを拒否した場合は毛利氏を滅ぼす、という旨が記されており、輝元に決断を迫った[104]

輝元は恵瓊から説得を受けたものの、元春や隆景が領地の割譲に反対し、国境の画定交渉は難航した[105]。加えて、割譲を求められた美作・備中・伯耆の三国では、毛利氏配下の国人たちが領有地域からの退去に抵抗し、その説得のためには安易な妥協はできなかった[105]。美作では、毛利氏配下の草刈氏中村氏が宇喜多勢の侵攻を撃退しており、輝元自身は秀吉との軍事衝突に突入しても互角に戦えると判断していた[105]。だが、恵瓊は秀吉と戦闘に入った場合、9月16日付の書状では「十に七・八は負ける」と判断しており、輝元に軍事衝突を避けるように説得し続けた[106]

天正12年1月、秀吉は毛利氏との講和交渉が進まない事に激怒し、明け渡し対象の毛利氏諸城の攻撃を示唆したばかりか、また講和の条件を美作・備中・伯耆の三国の割譲ではなく、当初の美作・備中・伯耆・出雲・備後の5ヶ国割譲に立ち戻ると脅した[106]。前年10月に輝元は叔父の小早川元総と元春の三男・吉川経言を毛利氏の人質として提出していたが、これは秀吉からすれば毛利氏の一時しのぎとしてみなされていなかった[107]

このとき、秀吉は徳川家康や織田信雄との関係が悪化しており、輝元が軍を率いて上洛し、背後から毛利勢が襲ってくるのではないかという心配にも駆られていた[107]。秀吉は毛利氏が参戦するのを恐れ、小牧・長久手の戦いの間もずっと、宇喜多秀家や因幡衆に警戒させていた[107]

同年11月、秀吉と家康・信雄との講和が成立し、秀吉はさらに強大な勢力を持つようになった。輝元は秀吉が東海ら引き上げて西国へと転向し、毛利氏領国へ侵攻することを恐れるようになった[107]。また、同年秋には備前・美作での戦闘は終結し、毛利氏配下の国人たちは退去しつつあった[107]

天正13年(1585年)1月、輝元は秀吉との国境画定に応じ、毛利氏は安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、隠岐国7ヶ国に加え、備中・伯耆両国のそれぞれ西部を領有することとなった[108]。輝元は祖父以来の領地を認められ、その所領の総石高は120万5,000石となり、徳川家康に次ぐ領地を有する全国第二の大名となった[109]

こうして、輝元は秀吉と正式に講和し、天正4年から続いた毛利氏と織豊政権の戦闘はようやく終結した(京芸和睦)。

豊臣政権への協力と臣従編集

紀州攻め編集

天正13年3月、秀吉は根来衆などを討伐するため、紀州攻めを行った[99]。このとき、輝元は秀吉に協力し、毛利水軍を紀州へと派遣している[99][110]

四国攻め編集

天正13年5月、輝元は秀吉の長宗我部氏に対する四国攻めに協力し、小早川隆景らの軍勢を伊予に派遣した[111]。その兵力は3万から4万に及んだという[111]

輝元はかつて信長に対抗するため、長宗我部元親と同盟を結んでいたが、秀吉との講和により解消されていた[112]。また、伊予には毛利氏と長らく友好関係にあった河野氏がおり、土佐一条氏の侵攻に対して援軍を出したこともあった。そのため、秀吉の四国遠征に協力することは、長宗我部氏のみならず河野氏との断交も意味していた[108]

だが、毛利家中には深刻な問題が発生していた。それは秀吉に割譲した領地を支配していた毛利氏配下の国人たちに対して、新たな給地どうするかという問題であった[112]。輝元はこの問題を解決するため、秀吉の四国攻めに協力したのであった。

四国攻めの結果、8月に元親は降伏し、長宗我部氏の領地は土佐一国となり、割譲された阿波・讃岐・伊予に関して国分が行われた。その結果、伊予から河野氏が除封され、輝元配下の隆景、 小早川秀包、安国寺恵瓊、来島通総得居通幸らに宛がわれた[113][114]

また、この間に秀吉は朝廷から関白に任命され、豊臣政権が成立した。

九州攻め編集

天正14年(1586年)8月、輝元は秀吉の島津氏に対する九州攻めにも参加した。

これは島津氏が大友氏の本領・豊後へと侵攻し、秀吉の出した惣無事令に違反したことにあった[115]。だが、毛利氏は大友氏に対抗するため、島津氏とはこの九州攻めより以前から友好関係を保ち軍事同盟が成立していた[115]。また、義昭がその間を仲介し、本能寺の変後も義昭の使者として柳沢元政が下向しており、輝元自身も元政宛ての書状で「薩州こなた手合せの儀肝入」と記している[115]。つまり、秀吉の九州攻めに参加するということは、皮肉にも宿敵であった大友氏を助け、良好な関係にあった島津氏と戦うということであった[115]

輝元は4月に秀吉から出陣要請を受けると、8月に自身は安芸より、月末には小早川隆景が伊予国より、吉川元春が出雲国よりそれぞれ九州に向けて進発した。そして、輝元は豊後へ到着し、先鋒を任され毛利勢は島津勢と交戦した。

天正15年5月、島津氏が降伏し、6月に秀吉は九州国分を行った。その中で、毛利氏の領国の転換を行おうとし、備前・伯耆・備後・伊予を収公して、豊前・筑前・筑後・肥後を代わりに与えようとした[116]。だが、輝元は祖父が早い時期に進出した備後が含まれていたことから納得せず、秀吉は伊予以外の収公を断念し、隆景を伊予から筑前・筑後に移すことを提案した[117]

隆景は戦乱で荒廃した筑前・筑後を与えられても公役を果たすことはできないことや、自身が毛利氏から離れることが輝元を見捨てることに繋がると、この案にも反対した[118]。結局、同年に筑前一国と筑後・肥前は隆景に宛てがわれ、隆景は毛利氏の経営から離れることとなった[119]

また、九州攻めの最中、輝元を支えてきた吉川元春・元長父子が病で死去し、毛利両川の体制が崩れることとなった[120]

上洛と秀吉への臣従編集

天正16年(1588年)7月19日、輝元は主な家臣を連れて大阪に到着し、浜の町の布屋に入った[121]。このとき、義昭の使者・真木島昭光が訪れ、輝元に金屏風一隻、樽二十荷、肴十折、帷子二十が贈与された[121]

その後、24日に輝元は上洛し、秀吉と聚楽第で対面した[121]。そして、同月25日に輝元は内裏に参内し、後陽成天皇から天盃を頂戴され、従四位下侍従に任官した[122]。さらに28日には参議に転任した[123]。これにより、輝元は清華家の家格を持つ大名として扱われ、朝臣として秀吉の創出した公儀の序列に入った[123]。また、秀吉から豊臣姓羽柴の名字を下賜され、羽柴安芸宰相と称されるとともに[124]、完全に秀吉に臣従した。

8月27日、輝元は帰国のため、秀吉の聚楽第を訪問した[121]

9月10日、輝元は宇喜多秀家に招待され、大阪の屋敷を訪問した[121]。この場には秀吉も臨席した[121]。その後、同日に輝元は安国寺恵瓊や細川幽斎とともに義昭のもとを訪れると、義昭から多年の功を謝され、懐旧談にも及んだという[125]

9月12日、輝元は大坂を出航し、安芸へと帰還した[125]

広島城築城編集

天正17年(1589年)4月以降、輝元は当時の交通の要衝である太田川三角州(当時の名称は五箇村)に、広島城の築城を開始した[123]

広島城は輝元が上洛時に見聞した聚楽第や秀吉の居城・大坂城に感化されて築城されたものである[123]。また、この城は豊臣政権の強い影響下で築城されたという見解もある[123]。他方、この城は太田川の三角州を開拓することにより毛利氏領国の首都機能を集約する意図があったとされ、輝元の意向で築城されたものであって豊臣政権の影響下で築城されたものではないとする説もある[123]

天正18年(1590年)2月、秀吉が後北条氏する小田原攻めで関東へと赴くと、輝元はその留守を守るため、京都警固を務めた[126]

天正19年(1591年)3月、輝元は秀吉より知行目録を与えられ、112万石の所領を安堵された[注釈 3]

また、同月には広島城が概ね完成し、輝元は長年の毛利氏の居城であった吉田郡山城から広島城に移った。秀吉の聚楽第や大坂城を模したこの城は、毛利氏領国の首都機能を集約し、輝元の権威を象徴するものとなった[123]

文禄・慶長の役と五大老就任編集

文禄元年(1592年)2月、輝元は秀吉の朝鮮出兵に応じ、朝鮮へと渡海するために広島城を出発した[126]。その後、4月に小西行長が先陣として朝鮮に入ると、諸将もそれに続き、輝元率いる3万の軍勢は六番隊として朝鮮に入り、5月に星州に布陣した。

6月、輝元は開寧に陣を進め、五番隊と連携して日本軍連絡線の守備に就いた。開城陥落後、諸将は漢城で軍議を開き、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決め、輝元は七番隊として慶尚道を制圧することとなった。輝元は同月の茂渓の戦いや8月の第一次星州城の戦い、9月の第二次星州城の戦いなど、慶尚道において朝鮮軍と激戦を繰り広げた。

文禄2年(1593年)3月、日本と朝鮮の援軍たる明との間で講和交渉が進められると、8月に輝元は朝鮮から帰国した[126]

文禄4年(1595年)7月、秀吉の甥で関白・豊臣秀次が高野山で切腹させられる、いわゆる秀次事件が発生するが、この事件は輝元と秀次がかつて交わしたという誓約が発端となっている[127]。当時、輝元は朝鮮出兵や築城普請などで莫大な赤字を抱えていたため、秀次からかなりの借財を重ねていた[128]。そのため、輝元は秀吉に疑われて粛清されるのを恐れ、秀次からの借金の誓書を謀反の誓書として偽って秀吉に差し出し、それが秀次の謀反と判断されたとする説がある[128]

同年8月、輝元は秀次事件を克服しようと考える秀吉より、徳川家康らとともに五大老[注釈 4]に任じられた。[131]。このとき、輝元と秀次との誓約が先の事件の発端となったため、御掟五ヶ条が発令され、諸大名間の縁組・誓約(同盟)が全面的に禁止された[131]

同年10月、長らく実子がいなかった輝元に嫡子・秀就が誕生した。だが、輝元は従兄弟である秀元穂井田元清の子)をすでに養子としており、秀吉からも輝元の後継者として認められていたため、その処遇が問題となった。

慶長2年(1597年)2月、秀吉は明との和平交渉が決裂したことで再度の朝鮮出兵を命じ、西国諸将に動員令が発せられた。だが、輝元はこのとき病身のため出陣できず、養子の秀元が代わりに出陣した。この時の兵力は文禄の役と同じ3万であり、秀元もまた輝元と同様に各地で奮戦している。

隆景と秀吉の死、毛利家中の問題処理編集

 
徳川家康

慶長2年6月、残された両川となっていた小早川隆景が死去した。小早川家臣は養子の小早川秀秋に仕えることをよしとせず、毛利本家に帰参した。しかし、これらの者の中には帰参したはいいが、毛利家中では外様視されてしまうことを嫌い、出奔する者も多く出た。隆景の重臣であった鵜飼元辰も出奔を企てたため、輝元は元辰を殺害した。

また、隆景の死後、三原など毛利家に返還される所領の処理も問題となった。加えて、輝元は実子の秀就が生まれたため、秀就を後継者とする代償として、養子の秀元に領地を分け与えなければならなかった[132]

慶長3年(1598年)8月1日、秀吉はこの問題の処理のため、秀元の給地を出雲・石見(石見銀山を除く)の二国とし、隆景の遺領には吉川広家を移す意向を示した[132]。だが、この裁定の直後、秀吉の病状が悪化したため、実行には移されなかった[132]

同月18日、秀吉が大坂城で死去した[133]。輝元はその際、臨終間近の秀吉から遺児の豊臣秀頼の補佐を託された。だが、秀吉の死後、諸大名の間で政治的抗争が激化し、秀吉没後に決められていた集団指導体制は否定され、多数派工作が展開されていった[133]

8月28日、輝元は石田三成ら五奉行のうち四奉行に対し、「五大老の内、秀頼への謀反ではなくとも、五奉行の意見の同意しないものがあれば、自身は五奉行に味方して秀頼に奉公する」、とした旨の起請文を出した[134]。輝元は家康が五奉行が敵対すると考えていた。そのため、輝元は家康と五奉行と不和になった場合に際して、起請文通りに五奉行と連携するため、上方方面に兵を集結させていた[134]

9月3日、輝元・家康ら五大老と三成ら五奉行は起請文を交わし、「何事に関しても一切の誓紙を交わさない」と定めて多数派工作を禁じ、諸大名の対立はひとまず沈静化した[135]。とはいえ、家康と五奉行の対立は依然として続き、五奉行は強大な軍事力を持つ家康に対抗するため、家康に次ぐ実力を持つ輝元を味方に引き入れようとした[135]。そして、それは秀元の処遇・隆景の遺領問題を輝元有利に決着させるため、秀吉の裁定を見直す方向に繋がった[135]

その後、豊臣政権の取次であった三成は、秀元に吉川広家の所領である伯耆・出雲・隠岐を与えて、広家を宙に浮いていた小早川隆景の遺領に移す案を作成した。輝元は吉川氏の勢力を削減する意図をもっていたため、瀬戸内海の要所である三原を広家に与えることに難色を示して代替地を備中にする意向を示し、秀元も長門を与えられることを希望したが、所領を移される広家は元よりこの提案内容に反発し、三者三様の反対をした。にもかかわらず、慶長4年(1599年)1月に三成は広家の代替地の決定を先送りする形で、この案を押し切った。

七将襲撃事件と輝元の対応編集

 
石田三成

慶長4年閏3月、輝元と同じ五大老の前田利家が死亡すると、福島正則加藤清正ら七将が光成を襲撃した[136]。 三成は襲撃を逃れ、伏見城内の自邸に逃げ込んだ後、輝元と連絡を取るようになった[136]。その間、三成は輝元に対して、大阪の喉元を抑えるため、尼崎方面に陣を構えるように要請している[137]

結局、この事件は三成が佐和山城で隠居することとなり、同月21日に輝元も家康と起請文を交わして、そのなかで家康を兄、輝元を弟と称し、事実上屈服した[138]。だが、三成が失脚すると同時に、家康は自身と敵対する大名への勢力削減を狙い、その矛先は輝元にも向けられた[139]

4月、家康は三成が押し切った毛利氏所領に関する決定の見直しを行い、秀吉の遺命という大義名分を掲げ、秀元に長門及び周防の一部を分配するよう輝元に迫った[140]。だが、輝元は自己の権力強化を目指していたため、家康の強制とはいえ、それは受け入れられないことであった[140]

6月、秀元には長門、周防吉敷郡、安芸、周防、備後の旧穂井田元清領が与えられ、広家の所領をそのままに、隆景の遺領は輝元に返還されることになり、輝元・秀元・広家ともにこの案を受け入れた[141][142]。秀元に与えられた領地は伯耆・出雲・隠岐の三国の石高には若干及ばなかったが、秀元は父の遺領を引き継げたため納得し、毛利家中における秀元の処遇問題は解決した[143]

しかし、毛利氏の内部には、家康が家中の問題に介入し、それを許したという遺恨が残った[143]。輝元自身もまた、自らを頂点とする一元的な支配体型の構築を目指してきただけあって、家中の問題を自分の思い通りにできなかったことを屈辱に感じた[143]。そして、輝元は家康の権力増大を食い止める必要性を感じ、それが翌年の決起に繋がっていった[143]

西軍総大将として・関ケ原の戦い編集

西軍決起と大坂城入城編集

慶長5年(1600年)5月、家康は輝元と同じ五大老の一人・上杉景勝が上洛を拒否したことを理由に、これを秀頼に対する謀反として、会津へと出兵した[143]。家康が前年9月に大坂城に入城して以降、豊臣政権は家康が運営しており、輝元も景勝討伐に対して賛同せざるを得なかった[143]。とはいえ、輝元は景勝とも七将襲撃事件の解決を2人で調整して以降、強く結びついていたと考えられている[139]

6月16日、家康は諸将を引き連れて会津へと出陣したが、輝元はその直前に広島へと向けて帰国した[143]。輝元は広家と恵瓊を出陣させたが、恵瓊は三成や大谷吉継と会談し、家康に対する決起を決めた[144]

7月、遂に三成が挙兵した。この時、三成は吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。輝元も恵瓊の説得を受けて、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾する。そして、輝元は7月12日付の書状で五奉行のうち前田玄以、増田長盛、長束正家から上坂を求められた[145]

7月15日、輝元は三奉行からの書状を受け取るとすぐ広島を出発し、7月19日には大坂城に入城した[146]醍醐寺三宝院門跡・義演の記した日記『義演准后日記』7月19日条よると、その兵力は6万であったという[146]。それより2日前の17日、秀元は家康が居を置き政務を執っていた大坂城西の丸を占拠しており、城内から家康の留守居役を追い出していた[146]。大阪の徳川氏勢力の動きを封じ、秀頼を手中に収めることは西軍決起の計画の最重要行動の一つであったが、これは輝元の判断なしで秀元が行える行為ではなく、輝元は17日の時点で在坂していたか、あるいは事前に秀元に対して指示を出していたことになる[146]

輝元は大坂城に入城後、西軍の総大将として軍勢の指揮を執っていたが、関ケ原の戦いの終結まで城から出陣することはなかった[147]

四国・九州での展開編集

九州に向けては、当時広島城に滞在していた大友吉統を吉統の旧領地である豊後国に派遣した。大友軍は東軍の黒田家や細川家の九州留守居軍と戦闘を行う。また、西軍方の毛利吉成(もとは森氏で、輝元の毛利氏とは別族)が伏見城の戦いでの損害により兵力を欠くこともあり、黒田方から防衛するためとして輝元の旧領であった豊前国の吉成領を占領する。

また、蜂須賀至鎮が東軍に参陣したことから、その父・家政の身柄を押さえ、蜂須賀家の領国阿波徳島城を毛利家の軍勢に占領させる。東軍方で領主不在であった伊予国加藤嘉明領と藤堂高虎領では、故・小早川隆景の旧臣であった国人を促し蜂起させる。加藤領には毛利軍が侵攻し交戦した(三津浜夜襲)。藤堂領で蜂起した国人は藤堂家に鎮圧されている。

関ケ原本戦の敗北と大坂城退去編集

輝元は秀元と広家、恵瓊を出陣させ、毛利軍は伊勢国安濃津城を攻撃したのち、9月10日に南宮山に着陣した[147]。一方、同月1日に家康も江戸を出発して西上し、12日に岐阜に到着した[147]

輝元は大坂城にとどまっている間、家康の西上を阻止するために軍を南宮山に布陣させ、また離反者の情報を懸命に収集した[148]。西軍の大名には離反のうわさが飛び交っており、輝元は恵瓊からその報告を受けている[148]。だが、輝元は小早川秀秋が東軍に内通している報告も知らされていたが、最後まで対処できなかった[148]

一方、西軍が負けると判断していた吉川広家は黒田長政を通じて、毛利氏の本領安堵などの交渉を行った[149]。そして、9月14日には徳川方の本多忠勝や井伊直正が広家や福原広俊に対し、「家康が輝元を疎かにしないこと、領国をすべて安堵すること」を約束した起請文を提出している[149]。だが、これらの裏切りは南宮山の秀元、そして大坂城の輝元も知る由もなかった[149]

9月15日、関ケ原で西軍と東軍が激突したが、広家と秀秋の裏切りで西軍は敗北し、戦いは一日で終結した[150]。南宮山に布陣していた毛利の大軍勢は広家ら吉川軍に抑えられ、福原広俊が秀元の出馬を諫めたりしたため、傍観するほかなく、東軍と一線も交えずに大坂に撤退した[150]。退却した毛利勢は輝元のいた大坂城には入らず、大阪市中に駐屯した[150]

西軍壊滅の報が大坂に届くと、大坂城内の諸将の間では主戦論と講和論が衝突した。輝元には秀頼を擁して、大坂城に籠城して戦うという選択肢が残されていた。また、大阪には無傷で帰還した毛利軍や、本戦に参加しなかった軍勢も多数存在した[150]

一方、家康も輝元に対して、17日に両者の良好な関係を望むとの書状を送り、大阪城からの退去を促した[150]。輝元もまた、19日に家康に返書を送り、所領安堵に関してどうなるかを聞いている[151]。9月22日付の起請文では、輝元が所領安堵を条件に、大坂城西の丸からの退去する旨を記している[151]

そして、9月25日に輝元は所領安堵の起請文を受け取ると、秀元、立花宗茂島津義弘の主戦論を押し切り、自ら大坂城西の丸から退去し、木津の毛利屋敷に入った[151]。その後、輝元は四国・九州の毛利勢も順次撤退させている。

防長減封と出家編集

9月27日、輝元と入れ替わる形で、家康が大坂城西の丸に入城した。その後、大坂城では輝元の花押が押された書状が多数押収され、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、実際には総大将として西軍を指揮していたことが明らかとなった[152]

10月2日、家康は広家の説明が事実でなったことを理由として、輝元と交わした所領安堵の約束を反故にし、「毛利氏は改易し、領地は全て没収する」とした[152]。そして、家康は輝元を改易した上で、改めて広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした[152]

しかし、広家は本家を見捨てることができず、10月3日に輝元が西軍の首謀者でないことを改めて弁解するとともに、周防・長門2ヶ国は輝元に与えるよう嘆願した[152]。井伊直政もまた、家康に起請文を破ることへの不義を訴えたため、家康も輝元の処遇を考え直した。

10月10日、家康の命により、毛利氏の所領は山陽・山陰8ヶ国から周防・長門2ヶ国の29万8千石[注釈 5]に減封され、輝元が保持していた祖父以来の領地も多くが失われた(防長減封[152][154]。結局、輝元が隠居し、秀就が周防・長門2ヶ国を安堵される形で決着し、毛利氏の改易は避けられた。

同月[1]、輝元は剃髪し、法名を幻庵宗瑞(げんあん そうずい)と称した[155][1]。そして、嫡男の秀就に家督を形式的に譲り、秀就が初代の長州藩主となった。しかし、実際にはこれ以後も法体のまま、実質的な当主として藩に君臨し続けており、秀就との二頭体制が敷かれた[1][156]

また、輝元は豊臣期末には自らを頂点とし、佐世元嘉二宮就辰榎本元吉堅田元慶張元至ら様々な出自を持つ5人の輝元出頭人が領国統治を主導するという、一元的支配を構築しつつあった[157]。だが、江戸時代になると、輝元は本国に在国し、一方の秀就は江戸に在国ということが多くなるという二頭体制により、江戸幕府との折衝が豊臣期よりも重要性が増した[157]。そのため、支配機構も変化を余儀なくされ、国許に在国して輝元を支える役職と藩主・秀就に随従する役職の二元構造に移った[157]

萩城の建設編集

慶長10年(1603年)8月、輝元は防長減封後、初めての帰国を許された[158]。その際、家康が輝元の帰国許可を出すにあたって、領内の任意の場所に居城を築くことを勧めた。

同年10月4日、輝元は帰国し、周防国山口覚王寺を仮の居所と定めた。輝元は領内の諸城の構築強化に努め、国境の築城も進んだため、居城の選定に着手した。減封後は暫定的に山口の高嶺城を居城としていたが、高嶺城は海辺に面していない点が近世城郭としては欠点であったため、別の候補地も探し、11月には防府の桑山を候補に選定したが、桑山は砂山で石垣を積み上げることが困難であり、節所もないことから決定には至らなかった[159]。その後、築城の有力候補として、阿武川の河口に位置し日本海にも面している長門国のに白羽の矢が立ったが、山陽道への往来が困難であり、位置が領内の北端に位置している点が欠点と考えられた。ここに至って、輝元は築城地の選定に幕府の意見を求めることとした[160]

慶長9年(1604年)1月、輝元は福原広俊を江戸に派遣し、広俊は既に江戸にいた国司元蔵と共にまず毛利氏の取次を務める本多正純のもとに赴き、防長両国の絵図を示し、候補である周防国山口の高嶺、防府の桑山、長門国萩の指月山のいずれを居城とすべきか意見を求めた。正純は国の地勢や方角についてを詳しく広俊に質問した上で比較し、暫定的居城の高嶺城では駄目なのかと問うと、広俊はその通りだと答えたため、桑山には節所がないこともあり、正純は所柄の良い指月山を勧めた。その上で、本多正信の意見も聞くように勧め、もし城地の選定について妨害する者がいたとしても我等父子がいるため安心するようにと述べた。その後、広俊と元蔵は本多正信、村越直吉に意見を聞き、最後に堅田元慶も連れて城昌茂に意見を聞いた結果、萩の指月山に居城を築くことに決まった[161][注釈 6]

そして、輝元は萩城の縄張りを再三固辞する吉川広家に強く依頼して、2月18日に縄張初を行い[162]、築城がある程度進んだ11月10日に輝元は山口から萩城に移り住み居城とした。だが、萩城の普請は輝元の入場後も続けられ、翌年の慶長10年(1605年)には城の東門の取入、舟入の南喰違の石垣、北の浜辺の石垣等が完成する[163]。幕府は築城の規模を極めて小さくするように指示していたが、最終的に萩城は広島城に匹敵するほどの大規模な城郭となった[164]

慶長10年(1605年)7月2日、輝元は家中統制の必要もあり、熊谷元直天野元信らを萩城の建築中の3月に発生した五郎太石事件に絡んで粛清した[165]。この事件は熊谷元直・天野元信ら両名と益田元祥との萩城の建設における争いが発端であるが、これにより城の建設が遅れたたほか、2代将軍となった徳川秀忠を祝うための輝元の上洛まで遅れることとなった。輝元は4月に上洛したものの、築城作業の遅延が幕府の不興を買うことを恐れ、6月に萩城に戻ると、7月には両名を追討するに至った。

慶長15年(1610年)、領内検地の後、幕閣とも協議し公称高(表高)36万9,411石[注釈 7]に高直しを行ない、この表高は支藩を立藩した時も変わることはなかった。

大坂の陣編集

大阪冬の陣編集

慶長19年(1614年)8月、方広寺の大仏鐘銘問題を契機として、江戸幕府と豊臣氏の緊張が高まった[166]。豊臣側は豊臣恩顧の大名に参陣を呼びかけたが、輝元をはじめ呼びかけに応じた大名はいなかった[166]

慶長19年(1614年10月11日、輝元は家康が大坂城攻撃のため駿府を出陣すると、本多正純が家康の出陣を輝元に報じ、毛利氏領内での舟留めと不審な往来船の船改めを要請した。輝元は直ちに了承して舟留めと船改めを実行し、10月24日には幕府奏者番城昌茂に報告するとともに、万事幕府奉行衆の指図通りに行動すると述べた[167]。しかし、九州から東上する船の内、どの船をどの程度の厳重さで舟留めすべきかが不明瞭であったため、輝元は駿府にいた宍戸元続神村元種に対し、そのことを本多正純に入念に問い質し、可能であれば正純の墨付を入手するように命じた[168]

10月23日、家康が二条城に入ると、本多正純は10月24日に輝元へ奉書を送り、毛利氏の出陣を要請した[169]

11月3日、輝元は毛利秀元の留守を預かる毛利元鎮椙杜元縁等に対し、秀元から出陣について申し下しがあれば留守衆の内の半分を東上させる一方で、椙杜元縁、西元由三沢七郎兵衛など残る半分を留守居として長府に在番させ、もし万が一長府を維持できない変事があれば萩に引き上げること等を命じた[168]。さらに11月5日には、秀元領内の廻船を一艘残らず周防国三田尻に回航させること、船子も有り次第に用立てること等を命じている[169]

11月9日、周防国岩国の吉川広家は輝元の側近である井原元以に上方の情勢を伝え、輝元の出陣を促した。翌11月10日に輝元は益田元祥と山田元宗に国許の差配を任せ[注釈 8]11月11日に萩を出陣し、周防国三田尻から海路で東上した。また、11月10日に徳川秀忠が伏見に到着すると、秀忠に従う酒井忠世土井利勝安藤重信は江戸にいる秀就と秀元に出陣を要請し、毛利氏は国許と江戸の両面から大坂城攻撃に加わることとなった[169]

11月14日夜、輝元は備前国児島郡下津井に、11月17日未明には摂津国兵庫に到着し[注釈 9][170]、直ちに兵庫到着を本多正信・正純父子や、家康の軍に従軍する平川孫兵衛に報じた。また、萩の益田元祥と山田元宗には、自身の兵庫到着や家康の住吉着陣、秀就と秀元も近日に大坂に到着することを報じ、不足する兵粮と軍用金を急ぎ送るよう求めている。さらに、輝元は従軍する家臣等に黒印の掟を布告し、陣中の法度を厳とした。

しかし、輝元は長い航海の疲労からか病にかかってしまったため、井原元以を家康の陣中に遣わし、病により軍務がままならないことを謝した。家康は近日中に西上する秀就に大坂城攻撃を委ね、輝元は国許の仕置きなどをするように答え、秀就の到着を急がせることを促した。

11月21日、輝元は次男・就隆を名代として宍戸元続と共に家康に面会させ、同日夕刻には秀就へ西上を督促する書状を送った。また、11月22日には留守居の繁沢元氏、益田元祥、山田元宗に対し、秀就が到着次第帰国すると報じた。

この頃、家康は大坂城の堀の水位を減少させて攻撃しやすくするために摂津国西成郡江口に堰を築いて淀川を塞き止め、淀川の支流の伝法川舟橋を架けるよう輝元に要請した。

11月22日、要請を受けた輝元は留守居の繁沢元氏、益田元祥、山田元宗に使者を送って普請に必要な兵糧と銀子を昼夜兼行で急送するように命じ、11月23日には後から東上した吉川広家と繁沢元景を江口に派遣し、工事を監督させた。さらに11月24日には、輝元自ら普請を督するために摂津国西宮へ陣を進めた。11月29日に本多正純は宍戸元続を通じて、家康の意向により河内国茨田郡守口へ陣を進めるように要請したが、輝元はそのまま西宮へ滞陣を続けた[注釈 10]。また、京都所司代板倉勝重が江口普請場へ乱暴狼藉の禁令出すと、輝元も12月3日に現場の吉川広家、繁沢元景、毛利元倶に対し、西宮で他所の者と紛争し狼藉に及んだ者を捕らえた事例を伝え、よくよく乱暴狼藉を制止するよう命じた。

12月6日、秀就と秀元が大坂に到着し、茶臼山の家康や西宮の輝元と面会した後に大坂に着陣した。秀就が到着したため、12月8日に家康は柳生宗矩を使者として輝元に衣服等を贈って滞陣の労を謝し、帰国して療養することを勧めた。

12月10日、輝元は茶臼山の家康を訪ねて帰国の挨拶をした後に宍戸元続を伴って帰途につき、12月18日には周防国三田尻に到着した。輝元は秀元の命により東上する椙杜元縁に対して三田尻での面談を要請したが、元縁が病で面会に応じられなかったため、12月21日に輝元は秀元が吉川広家や福原広俊と衝突することを戒める訓諭を書状にしたためて元縁に与えた。

一方、大坂に残る毛利軍はその後もさほど戦闘を行わないまま、12月20日には徳川方と豊臣方の講和が結ばれ、大坂冬の陣は終結した。

大阪夏の陣編集

慶長20年(1615年4月17日、輝元は本多正純から届いた奉書によって、徳川方と豊臣方が手切れとなった際には摂津国の兵庫、西宮、尼崎付近へ出陣する準備を命じられると、直ちに秀元を毛利軍の先鋒とし、宍戸元続、毛利元倶、毛利元宣毛利元鎮らを従軍させると決定した。

4月18日、家康が二条城に入り、4月21日には秀忠が伏見城に入ったことで、本多正純は毛利氏への出陣を要請した。これにより、4月28日に先鋒としてまず秀元が出陣し、5月4日に秀就は吉川広正や宍戸元続をはじめとする毛利氏の主力を率いて周防国三田尻を出航したが、秀就は大坂城陥落には間に合わなかった。しかし、家康はそもそも毛利氏へ出陣命令を出すことが遅れたことが原因であるとして、これを不問としている。

大坂の夏の陣においては、内藤元盛(佐野道可)烏田通知幸田匡種笠井重政など、豊臣方に加わった毛利氏旧臣がいたが、輝元の母方の従兄弟で重臣の内藤元盛が「佐野道可」と名乗って大坂城に入城したのは輝元、秀就、秀元、宍戸元続らの謀であるとする説がある[172][注釈 11][注釈 12][166]

大坂夏の陣後、5月に内藤元盛が京都郊外で捕縛されると、取調べの担当である大目付の柳生宗矩から輝元の命によって元盛が大坂城に入城した疑惑を問い詰めたが、元盛は独断で入城したと主張し、21日に自刃したことにより毛利氏への嫌疑は不問となった[175]。その後、内藤元盛の子である内藤元珍粟屋元豊が家康に謁見し、元盛とは無関係であるとの釈明を認められて帰国したが、輝元は帰国した二人を自害させた上、内藤元珍の子・元宣を幽閉した[176]

家中融和と吉見氏の追討編集

大坂の陣の後、輝元は大坂の陣の軍役や江戸城などの手伝普請、江戸藩邸の建設でかさむ借財や、関ヶ原以後に生じた家中の分裂を解消すべく腐心した。

元和2年(1616年7月19日、輝元は家中融和の策として、一人娘の竹姫吉川広正と婚姻させた[注釈 13][177]

また、元和3年(1617年)11月には繁沢元景の媒酌により次男・就隆と秀元の長女・松菊子を婚約させ、元和7年(1622年7月28日に正式に婚姻させた。

元和4年(1618年8月25日、輝元は清水元親らに命じて、かねてから対立していた吉見広長を追討し、自害に追いやった[178]

広長は毛利家中での処遇に不満を持ち、関ヶ原の戦い後に独立大名化や他大名への仕官を図って、慶長9年(1604年)から元和3年(1617年)までの13年間に渡って毛利氏を出奔していたが、大坂の陣の後に許されて帰参していた[179]。他方、輝元は広永の出奔を理由として、吉見氏を毛利氏に吸収するため、慶長17年(1612年)に吉川広家の次男に吉見広頼の娘を娶らせて吉見氏を相続させるなど、両者の対立が深刻化していた[179]

輝元は広長との不和に対して、幕府からお家騒動の嫌疑を掛けられ、ひいては毛利氏改易に繋がることを恐れていた[180]。そのことが輝元に広長の追討に踏み切らせることに繋がった[180]

広長の死より、源範頼以来続いた源氏の名門・吉見氏が事実上滅亡したが、輝元は吉見氏に厳しい処分を下した。広長の父・広頼は同心していなかったとして隠居料を安堵されたが、家臣らに対しては広長補佐の役割を果たさなかったとして追放処分を科し、あわせて防長二国への入国禁止、違反した場合は成敗するとまで言い渡した[180]

最期の上洛編集

 
徳川秀忠

元和5年(1619年)8月、輝元は健康の悪化も顧みず、5月に上洛していた将軍・秀忠に面会して大坂の陣以来の毛利氏に対する好意を謝すため、合わせて今後のことも宜しく依頼するため、あえて上洛に踏み切った[181]

輝元は病をおして萩城を発ち、8月13日に大坂、8月16日に京に入り、妙伝寺を宿所とした。輝元が入京すると、幕府の年寄衆は直ちに使者を送って輝元の無事の上洛を祝し、8月19日には高力忠房が秀忠の使者として輝元の宿所を訪ね、老躯を推して上洛し祝着である旨を伝え、土井利勝も秀忠との謁見は長旅の疲労を癒してからで良いと内々に伝達した[182]

8月25日、輝元に土井利勝の宿所を訪ねて饗応を受けてから、秀忠の宿所である二条城に登城した[181]。登城の際には、秀忠の勧めにより玄関まで輿で乗り付け、神尾守世、柳生宗矩、曲直瀬玄朔らに手を引かれて参入し、秀忠の前では本多正純に手を引かれ、土井利勝の取り持ちで秀忠に謁見した。秀忠は輝元と会ってゆるゆると懐旧談をするつもりであったが、輝元の病状が思いのほか良くないことから懐旧談をするのは取り止め、懇ろに遠路上洛した輝元を労うと共に養生するよう輝元に伝えた。なお、輝元登城の際に秀忠がこのような特別な計らいをしたのは、京に滞在中の輝元がしばしば曲直瀬玄朔の薬を服用し、他人との面会を謝絶して秀就や秀元に代理をさせていたためである。

8月28日、土井利勝が上使として来訪すると、輝元は秀忠の計らいや土井利勝の懇意への感謝を述べ、秀就、秀元、就隆、吉川広正の今後を頼むと共に、遠国のことであるのでもし毛利家について不審に思う点があれば内証に尋ねて欲しいと依頼した[183]

こうして、輝元は上洛の目的を果たし、9月1日に京を発って帰国したが、この時の上洛が輝元の生涯で最後の上洛となった[184]。 また、秀忠への謁見は隠居するにあたり、将軍家への挨拶を済ませる意味相も持っていた[181]

家督譲渡編集

 
毛利秀就

元和7年(1621年11月3日、輝元は松平忠輝の改易や福島正則の減転封等の事例から幕府による改易に備えて、秀就に20箇条に及ぶ長文の訓戒状を送った[185]。主な内容としては、秀就の行状を戒めて孝行を勧め、毛利家中の者や他家の者、特に将軍や幕府に対する態度こそが肝要と心得て毛利家の存続を図るように求めるものであり、秀就も訓戒状の趣旨を承服し、即日に自筆の返書を出している[186]

元和9年(1623年)9月10日、江戸から帰国した秀就が萩城に入城すると、輝元は家督を譲渡する儀式を行い、正式に秀就へと家督を譲渡した[187][188]。このとき、輝元は病気療養中であり、同年の秀忠・家光の上洛に際しては、吉川広正をその名代として派遣した[188]

この元和9年の家督継承儀式により、対内的にも輝元から秀就への家督継承が完了した[189]。だが、輝元はその後も毛利氏当主としての権限を一定は行使しており、その死まで輝元と秀就の二頭体制は続いた[189]

最期編集

寛永元年(1624年9月1日以降、輝元は腹中が詰まる病気にかかった。前年に将軍職を譲って大御所となった徳川秀忠と、将軍・家光は輝元の病状を憂いて、10月2日に江戸在府中の秀元に帰国を許可し、輝元の見舞いと領国の政治の補佐を命じた。

秀就も輝元の病状を心配して、10月4日に国許の繁沢元景、益田元祥、清水景治に対して「秀就と就隆は江戸を離れられないため、ただ気遣いをするのみであるが、輝元の養生について相談した秀元が帰国を許可されたため、ひとまずは安堵している」と述べている。

この時の輝元の病も元和5年に京から帰国した際と同様に、榎本元吉が進上した霊薬によって10月上旬には回復し、食事も元通りとなったが、これ以降輝元の体調はめっきり衰えることとなった[190]

寛永2年(1625年)2月、輝元の体調の衰えを心配した秀就は輝元の見舞いのために児玉元恒を萩に派遣した。

3月10日、児玉元恒が萩へ到着し輝元を見舞うと、輝元は大いに喜んだ。輝元の見舞いを終えた児玉元恒は再び江戸へと戻った[191]

しかしその後、腰に腫物ができるなど輝元の病状は悪化し、4月27日酉の刻(午後6時頃)に隠居所である萩の四本松邸で死去。享年73(満72歳没)[1][192][188]

没後編集

輝元死去の2日後である寛永2年(1625年)4月29日、輝元の病状悪化の報が江戸の秀就のもとに届き、秀就は再び児玉元恒を萩に派遣し、輝元の隠居所に詰めて時々刻々の輝元の様子を伺うよう命じた。さらに、秀忠と家光に対して、自らも帰国して秀元と共に輝元の看病に当たりたいと嘆願し、5月2日に帰国の許可と見舞いの品々を与えられて直ちに帰国の途についたが、帰国した秀就は既に輝元が死去していたことを知り深く悲しんだ。江戸には5月8日に輝元の訃報が届いたが、秀就は既に帰国の途についていたため、就隆が直ちに繁沢元景、益田元祥、榎本元吉らに返書を書き、訃報を受けとり落胆した旨を伝えている[193]

5月13日、萩の平安寺において輝元の葬儀が執り行われ、輝元の法名を「天樹院殿前黄門雲巌宗瑞大居士」と称した。遺骨は輝元の隠居所に丁重に埋葬し、一寺を建立して「天樹院」と称した[194]

輝元の訃報を知った秀忠と家光は、5月19日榊原職直多賀常長を上使として萩に派遣。香典として秀忠は銀子300枚、家光は銀子500枚を贈り、弔意を述べた。中でも秀忠は輝元とは年来の誼があり残念であると述べている。これに対して、秀就は繁沢元景を使者として江戸に派遣し、老中酒井忠勝稲葉正勝等に贈り物をして丁重に謝辞を述べた[195]

6月2日、かつて毛利家を出奔して輝元に帰参を許された長井元房殉死した。元房の墓は輝元夫妻と同じ場所に建てられた[196]

経歴編集

元和9年(1623年

    • 9月10日、正式に秀就へ家督譲渡[187][188]

人物・評価編集

  • 輝元について、慶長の役で日本軍の捕虜となった朝鮮の官人・姜沆は『看羊録』の中で、「つつしみ深く、ゆったりと大らかで、わが国(朝鮮)人の性質によく似ている」と記しており、「朝鮮出兵の時、輝元だけは朝鮮人の鼻削ぎなどの残虐行為を見て、哀れだと思う心を持っていた」と、敵ながら彼の人格を称えている[197]。また、姜沆は「日本人は皆、「家康は関東から京に至るまで米俵を以って道を作ることができ、輝元は山陽・山陰から京に至るまでの道に銀銭を以って橋を作れる」、と言っている」とも記している。さらに、姜沆は輝元統治下の広島の繁栄ぶりを見て、「物力に優れ、富んでいるのは、京に例えられる」と記している[197]
  • 輝元は毛利氏の当主としては初めて、室町幕府の将軍から偏諱を賜った。毛利氏の当主はこれまで、父の隆元は大内義隆、大伯父(元就の兄)・興元は大内義興、曾祖父の弘元は大内政弘、高祖父の豊元は山名是豊といったように、守護大名から偏諱を受けてその配下たる国人領主として元服してきた[7]。だが、輝元は国人領主としてではなく、いわば独立した「国家」の支配者として元服した[7]
  • 幸鶴期の輝元はある程度は自由に育てられていたと考えられている[198]。輝元は小鼓を非常に愛好し、幼少時には木原元定にともにその稽古に励んでいた[198]。また、幸鶴期の輝元が福原就理に対して、「鳥もちもずをとってきてほしい」と頼んでいる書状の写しがあり、11歳程度の少年に似つかわしい無邪気な興味が見て取れる内容である[198]
  • 祖父の元就は輝元を溺愛し、早くして父をなくした輝元にとっては、父に代わる存在でもあった。輝元の元服に際して、元就は室町幕府に将軍の一字を拝領できるように働きかけ、その元服を「こうづるいよいよ成人侯わんと、何よりめでたく、月星とこれのみ思い待ち入り侯」と祝い、その喜びの心情を輝元の実母・尾崎局や側室の中の丸に綴っている[199]。また、元就は毛利氏の家系が酒に身心を害されやすい体質であることを危惧し、輝元が元服を済ますと、酒を小椀の冷汁椀に一杯か二杯ほど以上は飲ませないよう尾崎局に忠告している[200]
  • 輝元もまた経験豊富な元就に全幅の信頼を置いており、元就が輝元の初陣後の永禄10年に隠居を考えたとき、輝元は「父・隆元は、40の歳まで祖父上に後見していただいたではないですか。(略)なのに、まだ15の私を、なぜ見捨てておしまいになるのですか」と説得して断念させ、元就は死ぬまでその後見にあった[11]
  • 叔父の小早川隆景は輝元に対して極めて厳格に接し、時には輝元を折檻したこともあった。だが、それも隆景が毛利氏の将来を思う一念から出たもので、輝元を決して軽視したのではなく、常に輝元へは宗家の主人として仕え、尊敬していた[201]
  • 輝元は側室の二の丸殿が幼少の頃に広島の児玉家門前で遊んでいたのを通りがかりに目に入れ、それをきっかけに大変気に入り、その後しばしば児玉家を訪問する始末であった。二の丸殿の父である児玉元良はこの輝元の態度を快く思わず、二の丸殿が12歳になると周防の杉元宣の嫁に出したが、天正17年(1589年)に輝元が元宣を殺害して二の丸殿を奪ったという逸話が『古老物語』に収録されている。一方、二の丸殿の兄弟の児玉景唯が輝元の側室・お松のもとに毎夜通っていたため、輝元は景唯の死後にその家を改易している[202]
  • 輝元は室町幕府が名実ともに滅んだのちも、その忠義の心を忘れなかった。天正17年5月18日、輝元は非命に斃れた義輝の25周忌に際して、鹿苑院塔主・西笑承兌にその仏事を依頼した[88]。これは「鹿苑院塔主が導師を勤めれば、昌山(義昭のこと)も喜ばれるだろう」と考えた輝元の配慮であり、奥野高広は「いかにも温厚な輝元の人間味がしのばれる」と評している[88]
  • 一方の義昭もまた、輝元の天正4年からの忠義を幕府滅亡後も忘れることはなかった[203]。天正16年閏5月には輝元と隆景に対し、「忠節を忘れることはない」と記した感謝の御内書を発給している[203]
  • 月山富田城の戦いにおいて、輝元は4月17日に行われた総攻撃の際、初陣であるにもかかわらず自ら先陣を買って出た[204]。だが、先陣を両叔父に反対されたばかりか、元就からも訓戒を受けたため、輝元はようやく断念したほどであった[204]。桑田忠親は、輝元が武門の家を継ぎ、好敵手たる尼子氏の本状を包囲したことで大いに血が騒いだのだろう、と推測している[204]
  • 布部山の戦いが始まった際、輝元が床几(しょうぎ)に腰かけていると、後ろの山より30人力でも動かせないような大岩が大きな音を立てて転がり落ちてきた。だが、輝元はこのような事態に少しも慌てず、「今、大岩が我が後ろより放られたということは、天が我に力を合わせて敵陣を打ち破れということを示したものだ。さもなくば、天が合戦を早めよと告げたもの。進めや皆の者」、と言って将兵を勇気づけた[205]
  • 本能寺の変において、輝元が信長の死によって危機を脱したことから、その黒幕とする説がある[206]。だが、米原正義は、輝元や穂井田元清、吉川広家が信長父子の急死を「不慮」、つまりおもいがけないことであると述べていることから、輝元の黒幕説は成立しないと述べている[207]
  • 輝元は関ケ原の戦いにおいて、従来いわれてきたような単に他律的あるいは形式的な西軍の盟主ではなく、むしろ意欲的・計画的な決起の主導者のひとりであったという見解がある[208]。たとえば、7月12日に発せられた三奉行の上坂要請の書状は、当時、書状が大坂から広島まで通常3日を要することからすれば、15日に到着した可能性が高いものであるが、輝元は同じ日のうちに広島をで出発しているところからみれば、彼は上坂(大坂行き)をほぼ即断しているのである。さらに19日には大坂城に入城して、家康留守居を早々に追い、公儀権力の要として豊臣秀頼を手中にするという挙に出ている。このように、大坂渡航に用いる舟・兵糧武具などの手配や家臣団への下知、および大坂城に入ってからの親徳川派の動きを封じる手法の迅速さ、手際のよさは、石田三成・大谷吉継の計画に一枚加わっていた輝元の予定の行動だとみることが可能である[208]
  • また、輝元は諸大名への西軍参加を呼びかけた書状を発送したほか、伊予において河野通軌ら、河野氏遺臣に毛利家臣である村上元吉を付けて、東軍・加藤嘉明の居城である伊予松前城攻撃に従軍させたこと、大友義統を誘い軍勢を付けて豊後を錯乱することなど、西国における毛利氏の領域拡大を進めようとし、積極的に西軍総大将として活動していたことが明らかになっている[209]
  • とはいえ、輝元は総大将でありながら実際には関ヶ原の戦場に赴かず、戦後は家康に改易されかけたが、吉川広家、福原広俊らの働きで防長2ヶ国のみ安堵され、かろうじて毛利氏は存続することになった[210][211]。広家が家康に出した起請文には、「輝元が今後少しでも逆心を抱けば、自分が輝元の首を取って差し出す」とまで記されている[212]。輝元は「近頃の世は万事逆さまで、主君が家臣に助けられるという無様なことになっている」、と自らの非力を嘆いたという[213][211]
  • 関ヶ原の戦い後、輝元が京都付近の木津屋敷に引き篭もっていた頃に長雨が続いた。その屋敷の外れに「輝元と 名にはいへども 雨降りて もり(毛利)くらめきて あき(安芸)はでにけり」という落首を記した高札が立てられたという[214][211]

系譜編集

偏諱を与えた人物編集

毛利輝元を題材とした作品編集

小説

毛利輝元を演じた俳優編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 天正10年(1582年)2月に吉川経安が子孫に書き残した置文「石見吉川家文書」では、「義昭将軍、織田上総介信長を御退治のために、備後鞆の浦に御動座され、毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り、井び(ならび)に小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春父子、その権威をとって都鄙鉾楯(とひむじゅん)にをよふ(及ぶ)」と記されている。
  2. ^ 山中幸盛の殺害を指示したのは、元春なのか輝元なのか諸説あり、はっきりしない。ただし、輝元実行の場合、幸盛の忠誠に感激していた元春・隆景が「殺害反対、家臣または助命」と進言したという。しかし、輝元は二度も毛利に捕らえられながらなおも敵対し、毛利につくことを潔しとしない幸盛の態度に憤然としていた。そのため、進言には一切耳を貸さず、幸盛を討ち果たすように命じたといわれる。このとき隆景は輝元の「政治的判断よりも感情を優先する」様子を見て、「総大将の器にあらず」と憂えたという[要出典]
  3. ^ 天正19年に豊臣秀吉から発給された領知朱印状・領知目録 「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)。内訳は、
    • 2万石 寺社領
    • 7千石 京進方(太閤蔵入地)
    • 6万6千石 羽柴小早川侍従(隆景)、内1万石無役
    • 11万石 羽柴吉川侍従(広家)、内1万石無役
    • 隠岐国 羽柴吉川侍従
    • 10万石 輝元国之台所入
    • 8万3千石 京都台所入
    • 73万4千石 軍役
    都合112万石 (『当代記』慶長元年「伏見普請之帳」安芸中納言の項)
  4. ^ 「大老」は後世の呼称であり、当時は「奉行」「年寄」[129]であったとする学説・文献もある[130]
  5. ^ 慶長10年(1605年)毛利家御前帳に29万8480石2斗3合と記されている。[153]
  6. ^ 瀬戸内海に面した防府や山口の築城が幕府に許可されず、やむなく萩に築城することとなったという逸話は俗説である。
  7. ^ 検地では53万9,268石余を算出したが、一揆の発生、東軍に功績のあった隣国の広島藩主・福島正則49万8,000石とのつりあいなどにより、幕閣は申告高の7割を新石高と公認した。
  8. ^ この時輝元は、大身か小身かによらず家臣の妻子を萩に集め、益田元祥と山田元宗の許可なく萩を離れてはならないと定めている。
  9. ^ 11月15日に輝元が国許の益田元祥と山田元宗に宛てた書状では、今後の予定を伝達して、不足している兵糧や銀子を求めると共に、大坂城の近々講和が行われるであろうと推測を述べている。
  10. ^ 一方で、家康の希望により次男・就隆を証人として江戸に送ることは了承している[171]
  11. ^ 閥閲録』巻28「内藤孫左衛門」には、輝元が内藤元盛に与えたとされる、嫡男・元珍の本家はもとより分家に至るまで、末代まで取り立てるという内容の宛名欠の起請文が収録されている。
  12. ^ 堀智博の研究によると、この逸話には信憑性がなく、元盛は天正17年(1589年)に輝元から勘気を蒙って追放されており、牢人として拠り所のない元盛は輝元の意思とは無関係に「佐野道可」として大坂籠城を行ったとする[173]。一方、脇正典は同事件に関係した文書は各所に及び全てを捏造するのは不可能であるとするとともに、慶長19年7月6日付の元盛の実兄・宍戸元続の書状(『毛利家文書』1329号)から元盛は秘かに毛利家から借財をしていたためにその要請を断り切れなかったと推測する[174]
  13. ^ 吉川広正と竹姫の祝言の前々日である7月17日、輝元は以下の内容の書状を吉川広家に送り、書状を受け取った広家も直ちにその趣旨を承服した旨を井原元以榎本元吉に答えている。①今回の縁談は我が領国のため、そして毛利家と吉川家の今後のためである。②竹姫は生まれつき体が弱かったことから、ただ成長してくれれば良いと思って自由に育ててきた。そのため、短気な性格となってしまい、広家も驚いて、広正も気に入らぬこともあるだろう。しかし、どうか家のためを思って堪忍してもらいたい。それでもどうしても堪忍できない時は密かに輝元に相談してもらいたい。輝元は既にその覚悟はあるため、遠慮なく申すように。相談があった場合は輝元から竹姫に十分に言い聞かせる。それでも足りなければ密かに広家に詫びる。④万が一、広正と竹姫のが不仲となれば、人々は様々なことを輝元や広家・広正父子に言うであろうが、これは悪事の基となるため、その場合は直談して究明することとする。⑤吉川家のことは元就が申し置いたように粗略には扱わない[177]

出典編集

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関連項目編集