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本来の表記は「張奫」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

張 奫(ちょう いん、生没年不詳)は、中国軍人は文懿。本貫清河郡

経歴編集

張双の子として生まれ、淮陰に居住した。北周のとき、淮陰の郭子冀が軍を引き入れると、張双は子弟を率いてこれを討ちたいと考えたが、決断することができなかった。張奫が父の考えに賛同し、郭子冀を破ることができたので、名を知られるようになった。州主簿を初任とした。

楊堅が北周の丞相となると、張奫は大都督に任ぜられて、郷兵を領した。隋が建国され、賀若弼寿春に駐屯すると、張奫はその下で間諜をつとめ、南朝陳に対する征戦に功績を挙げた。位は開府儀同三司に進み、文安県子に封ぜられた。1年あまりして、水軍を率いて笮子游を京口で討ち、薛子建を和州で撃破した。召還されて入朝し、大将軍の位を受けた。楊素の下で再び江南におもむき、高智慧会稽郡に討ち、呉世華を臨海で破った。位は上大将軍に進み、撫州刺史・顕州刺史・斉州刺史を歴任して、有能で知られた。598年、行軍総管となり、漢王楊諒の下で高句麗遠征に参加した。隋軍の多くは潰滅したが、張奫は自軍を保全して帰還した。仁寿年間、潭州総管に転じ、在職すること3年で死去した。

子に張孝廉があった。

伝記資料編集

  • 隋書』巻六十四 列伝第二十九
  • 北史』巻七十八 列伝第六十六