張 孝若(ちょう こうじゃく、繁体字: 張孝若; 簡体字: 张孝若; 拼音: Zhāng Xiàoruò; ウェード式: Chang Hsiao-Jo)は、中華民国の政治家・実業家。本名は怡祖だが、孝若で知られる。父は清末民初の政治家・実業家である張謇

張孝若
Who's Who in China, 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1898年2月8日
光緒24年正月18日)
死去: 1935年民国24年)10月17日
中華民国の旗 中華民国上海市
出身地: 江蘇省海門庁常楽鎮
職業: 政治家・実業家
各種表記
繁体字 張孝若
簡体字 张孝若
拼音 Zhāng Xiàoruò
ラテン字 Chang Hsiao-Jo
和名表記: ちょう こうじゃく
発音転記: ジャン シャオルオ
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事績 編集

1918年、アメリカのアーノルド商科大学を卒業して商学士の学位を取得した。まもなく帰国し、南通自治会の組織を提唱するなどした父を補佐した。1919年民国8年)、父が創業した淮海実業銀行で経理に就任している。1921年(民国10年)、江蘇省議会第3期議員に選出されたが、父命により開会前に辞任した。翌年から欧米と日本へ実業視察に赴いている。1924年(民国13年)5月、駐チリ公使に任命されたが、実際には就任しなかった。同年10月、呉佩孚率いる十四省討賊聯軍総司令部で参議・外交処長として起用されている[1]

1926年(民国15年)6月、揚子江(長江)水道討論委員会会長に任命されたが、翌月に父が死去したため、帰郷して家業を継いだ。以後、南通学院院長、大生紗廠董事長、大達輪船公司経理、淮南各塩墾公司常務董事長、大陸報官董事などを歴任している。しかし1935年(民国24年)10月17日、上海の自宅で召使に銃撃されて死亡した。享年38(満37歳)[1]

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  1. ^ a b 徐主編(2007)、1797頁

参考文献 編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1