張 弘略(ちょう こうりゃく、? - 1296年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯の一人。字は仲傑。

保定の大軍閥(漢人世侯)であった父張柔の地位を継承したが、クビライ政権の漢人世侯解体政策を受けて軍事指揮権を失い、主に内政面で活躍したことで知られる。

概要 編集

張弘略は保定の漢人世侯であった張柔の第8子で、経史に通じ騎射も得意とする文武両道な人物であったと伝えられている。1255年乙卯)、第4代皇帝モンケ・カアンの下に入朝して権順天万戸の地位を授けられた[1]。張弘略はモンケの四川親征に従軍したが、遠征中にモンケは急死してしまい、その弟のクビライが第5代皇帝への即位を宣言した。張柔はクビライの配下にあったために地位を保証され保定路総管の職にあったが、既に高齢であったために中統2年(1261年)を以て引退した[2]。そこで張弘略が地位を継いで順天路管民総管・行軍万戸の職を授けられ、亳州の駐屯軍を統べることになった[3][4]。なお、ほぼ同時期にクビライの承認の下で東平の漢人世侯である厳忠済が弟の厳忠範に地位を奪われており、張柔・張弘略の世代交代もクビライ政権の意向が絡んでいたのではないかと考えられている[5]

中統3年(1262年)、李璮が叛乱を起こすと、これに呼応して南宋の夏貴が北上してきたため、張弘略がこれを撃退するべく水軍を率いて出陣した。張弘略が水陸双方から夏貴の拠る蘄州に侵攻したところ、南宋軍はモンゴル軍を恐れて戦わずして退却してしまい、張弘略は失地のほとんどを取り戻した。敗れた李璮が処刑された後、かつて李璮と書簡のやりとりをしていた漢人世侯たちが叛乱に関わっていたのではないかと問題視されたが、張弘略のみはモンゴルへの忠義を勧める文書しか残っておらず追及を受けることがなかったという。しかし、李璮の叛乱を受けてクビライ政権は強大な権限を有する漢人世侯を解体することを決めており、張弘略も軍団の指揮官としての職を解かれて朝廷に召喚され、ジスン宴の運営に携わるよう命じられた[6]

至元3年(1266年)、大都の造営が始まると父とともにこれに携わり、築宮城総管の地位を授けられた。至元8年(1271年)、朝列大夫・同行工部事・兼領宿衛親軍・儀鸞等局の地位を授けられ、至元13年(1276年)には大都が完成すると内帑金釦・瑇瑁巵の褒章とともに中奉大夫・淮東道宣慰使の地位を得た。至元14年(1277年)、南宋領の平定に派遣され、主に船による食糧の輸送に携わった[7]

至元16年(1279年)、江西宣慰使の地位に移ったが、そこで饒州の盗賊が都昌を攻撃する事件が起こった。張弘略は「饒州は江東に属するといっても、(江西とは)太湖を挟んですぐ近くであり、ここで盗賊を滅ぼさなければ江西でもこれに呼応する者が現れるだろう」と述べて盗賊の本拠地を攻め、捕らえた賊酋を市中で磔にしたことで盗賊団はほぼ解体された。その上で「(盗賊に協力していても)兵を指揮していた者でなければ皆平民であり、余罪を追及することはない」と述べて民心を安んじた。 しかし、この頃に張弘略は病を患って亳州に帰り、至元29年(1292年)に張弘略は龍虎台(シラ・デクトル)でクビライに謁見し、自らの長子張玠を宿衛(ケシク)に入れることを請願し受け入れられた。クビライは更に張弘略に酒を賜って河南行省参知政事の地位を授けたが、元貞2年(1296年)に亡くなった。息子に張玠・張瑾・張琰らがいた[8]

順天張氏 編集

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張柔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張宏基
 
張弘正
 
張弘彦
 
張弘規
 
張弘略
 
張弘範
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張玠
 
張瑾
 
張琰
 
張珪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張景武
 
張景魯
 
張景哲
 
張景元
 
張景丞

脚注 編集

  1. ^ 牧野2012,260頁
  2. ^ 牧野2012,260頁
  3. ^ 牧野2012,260-261頁
  4. ^ 『元史』巻147列伝34張弘略伝,「弘略字仲傑、柔第八子也。有謀略、通経史、善騎射。嘗従柔鎮杞徙亳。歲乙卯、入朝憲宗、授金符、権順天万戸。従征蜀、以其幼、賜錦衣、令還鎮、柔既致仕、授弘略金虎符・順天路管民総管・行軍万戸、仍総宣徳・河南・懷孟等路諸軍屯亳者」
  5. ^ 牧野2012,392頁
  6. ^ 『元史』巻147列伝34張弘略伝,「中統三年、李璮反、求救於宋将夏貴。貴自蘄乗虚北奪亳・滕・徐・宿・邳・滄・濱七州、新蔡・符離・蘄・利津四県、殺守将。弘略率戦船遏之于渦口、貴退保蘄、弘略発亳軍攻之、水陸並進。宋兵素憚亳軍、焚城宵遁、追殺殆尽、獲軍資不可計、尽復所失地。李璮既誅、追問当時与璮通書者、独弘略書皆勧以忠義、事得釈。朝廷懲璮叛逆、務裁諸侯権以保全之、因解弘略兵職、宿衛京師、賜只孫冠服、以従宴享」
  7. ^ 『元史』巻147列伝34張弘略伝,「至元三年、城大都、佐其父為築宮城総管。八年、授朝列大夫・同行工部事、兼領宿衛親軍・儀鸞等局。十三年、城成、賜内帑金釦・瑇瑁巵、授中奉大夫・淮東道宣慰使。十四年、宋広王昺拠閩・広、時東海県儲粟数万、行省檄弘略将兵二千戍之、仍命造舟運粟入淮安。弘略顧民舟、有能載粟十石者与一石、人争趨之、一月而畢」
  8. ^ 『元史』巻147列伝34張弘略伝,「十六年、遷江西宣慰使。会饒州盜起、犯都昌。弘略以為、饒雖属江東、与南康止隔一湖、此寇不滅、則吾境必有相扇而起者。乃使人直擣其巣穴、生縛賊酋、磔于市、餘党潰散。下令曰『不操兵者、皆為平民、餘無所問』。頃之、以疾帰亳。有讒貴臣子在江南買田宅楽而忘帰者、詞引弘略。或謂弘略曰『公但居亳、未嘗在江南、入見宜自明』。弘略曰『明之、則言者獲譴矣、吾寧称疾家居』。二十九年、見世祖於龍虎台、請曰『臣之子玠長矣、願備宿衛』。従之、且賜以酒曰『卿年未老、謝事何為』。特命為河南行省参知政事。元貞二年卒。贈推忠佐理功臣・銀青栄禄大夫・平章政事・上柱国・蔡国公、諡忠毅。子三人玠、瑾、琰」

参考文献 編集

  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
  • 野沢佳美「張柔軍団の成立過程とその構成」『立正大学大学院年報』第3号、1986年
  • 元史』巻147列伝34張弘略伝
  • 新元史』巻139列伝36張弘略伝