思州(ししゅう)は、中国にかつて存在した唐代から宋代にかけて、現在の貴州省北東部および重慶市南東部にまたがる地域に設置された。本項では、明代から民国初年にかけて設置された思州府についても、合わせて解説する。

概要 編集

621年武徳4年)、唐により巴東郡務川県の地に務州が置かれた。630年貞観4年)、務州は思州と改められた。742年天宝元年)、思州は寧夷郡と改称された。758年乾元元年)、寧夷郡は思州と改称された。思州は江南西道に属し、務川・思王寧夷思邛の4県を管轄した[1]。唐末に思州は廃止された。

1118年政和8年)、北宋により再び思州が置かれた。の思州は夔州路に属し、務川・安夷邛水の3県を管轄した[2]

のとき、思州軍民安撫司が置かれた。思州軍民安撫司は湖広等処行中書省に属した[3]

思州は土官の田氏が代々にわたって統治して明初におよんだ。

1413年永楽11年)、明により思州府が置かれた。思州府は貴州省に属し、都坪峩異渓蛮夷長官司・都素蛮夷長官司・施渓長官司・黄道渓長官司の4長官司を管轄した[4]

のとき、思州府は貴州省に属し、玉屏青渓の2県を管轄した[5]

1913年中華民国により思州府は廃止された。

脚注 編集

  1. ^ 旧唐書』地理志三
  2. ^ 宋史』地理志五
  3. ^ 元史』地理志六
  4. ^ 明史』地理志七
  5. ^ 清史稿』地理志二十二