恵文后(けいぶんこう)は、中国戦国時代の王后。『史記集解』によるとの出身で姓。本名と両親は不明。秦の恵文王の正室であり武王の母親。昭襄王の義理の母にあたる。

恵文后
の王后

出生 不詳
死去 昭襄王2年(紀元前305年[1]
配偶者 恵文王
子女 武王
氏族 姓(一説に姫姓魏氏)
出身諸侯国 (一説に
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経歴 編集

恵文君4年(紀元前334年)、恵文王に嫁ぎ、魏夫人と称される。

恵文君9年(紀元前329年)、恵文王の長男の公子蕩(後の武王)を産む。

武王4年(紀元前307年)、武王が22歳で薨去。武王とその正室の武王后との間に子が居なかったため、恵文王の公子間で後継者争いが勃発し、魏冄の後押しを受けた羋八子の子の公子稷が昭襄王として即位。

昭襄王元年(紀元前306年)から昭襄王2年(紀元前305年)にかけて、先の後継者争いで敗れた庶長公子壮(季君)が中心となって公子雍ら反対勢力を結集して叛乱した。魏冄により叛乱は鎮圧され、昭襄王の兄弟で叛いた者は皆処刑され、恵文后もこの叛乱に加担した罪で処刑[1]され、武王后は故国のに放逐(または自ら逃亡)された(季君の乱、または庶長壮の反乱)[2]

脚注 編集

  1. ^ a b 『史記』「穣侯列伝」では武王より先に亡くなったとされる。和訳史記列伝 第十二 穣侯列伝177頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  2. ^   『史記』「秦本紀」第五 秦昭襄王 (中国語), 史記/卷005, ウィキソースより閲覧。 

参考文献 編集