戸沢 政房(とざわ まさふさ、永禄3年(1560年) - 寛永10年7月8日1633年8月12日))は、出羽戸沢氏の重臣。

生涯 編集

南部氏の一族で初名は南部五郎、後に杉山勘左衛門清康と称した。『戸沢藩系図書』のうち「戸沢勘兵衛家系図」では南部政康の子孫としている。

天正19年(1591年)の九戸政実の乱戸沢光盛に従い功績を挙げたと伝わる。これが豊臣秀次の目に留まり、政房は秀次に召し抱えられた。秀次没後は豊臣秀頼に仕えたが、大坂の陣において豊臣氏が滅びると、常陸松岡藩戸沢政盛を頼った。戸沢姓と知行1千石を与えられ重臣となり、戸沢伊豆守と名乗った。なお、秀次自害ののち、慶長年間中に戸沢氏に仕えたともされる。

子の清房は新庄藩家老として知行1千700石を得て、戸沢盛純(戸沢四郎兵衛家、戸沢忠盛の子孫)の娘を娶った。清房の長女は同じく藩重臣の楢岡友清に嫁し、その子の戸沢正庸は第三代新庄藩主となった。子孫は代々、戸沢勘兵衛を名乗った。

伝記資料 編集

  • 『戸沢勘兵衛家系図』

参考文献 編集

  • 『新庄市史 第2巻 近世上』2002年