房士達(ぼう したつ、496年 - 533年)は、中国北魏軍人本貫清河郡繹幕県[1]

経歴 編集

房三益の子として生まれた。若くして才気があり、族兄の房景先は「この児は才気高く度量も大きい。晩年には門戸を大きくすることができるだろう」と評した。済州左将軍府倉曹参軍を初任とした。京兆王元継大将軍となり、関中に出向するにあたって、士達の名を聞いて、騎兵参軍として召し出し、帳内統軍を兼ねさせた[2]

孝昌年間、同郷の劉蒼生・劉鈞・房須らが乱を起こし、郡県を攻略し、たびたび州軍を撃破していた。ときに士達は家で父の喪に服しており、斉州刺史元欣が将軍として求めたが、士達は喪中の礼を理由に固辞した。元欣が士達の友人の馮元興に命じて説得させたので、士達はやむをえず出馬し、州郭の人2000人あまりを率いて東西の反乱軍を討ち、反乱を全て撃破して鎮圧した。武泰元年(528年)、平原郡太守に任じられ、豪族を抑圧して、境内を粛然とさせた。ときに邢杲が反乱を起こしたが、士達の威名を憚って、あえて攻撃してこようとはしなかった。永安3年(530年)、士達は済南郡太守に転じた[3]

爾朱兆洛陽に入ると、斉州刺史の蕭賛が城民の趙洛周に追放された。趙洛周らは士達に斉州の事務を代行させるよう上表しようとした。趙洛周の子の趙元献が上表文を書き換えたため、元子華が斉州刺史とされた[4][5]永熙2年(533年)、死去した。享年は38。平東将軍・斉州刺史の位を追贈された。は武といった[3]

脚注 編集

  1. ^ 魏書 1974, p. 969.
  2. ^ 魏書 1974, p. 975.
  3. ^ a b 魏書 1974, p. 976.
  4. ^ 魏書 1974, p. 352.
  5. ^ 北史 1974, p. 548.

伝記資料 編集

参考文献 編集

  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4