故国壌王(ここくじょうおう、生年不詳 - 391年)は、高句麗の第18代の王(在位: 384年 - 391年[1])。姓は高、は伊速、または於尺支。先代の小獣林王の弟であり、父は第16代の故国原王。先王が嗣子のないまま384年11月に死去したため、王位に就いた。

故国壌王
各種表記
ハングル 고국양왕
漢字 故國壤王
発音 コグギャンワン
英語 Kogugyang-Wang
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治世

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後燕の支配下の遼東に攻め入り、一度は遼東郡玄菟郡を陥れるが、半年と立たずに奪い返された。この間、中国の幽州冀州から流民が大量に高句麗内に流入していたが、高句麗が遼東・玄菟を失った際にはこれらの流民もまた後燕領に還っていった。半島内では百済に攻め入られ、390年には都押城(黄海北道中和郡)を破られるなど、劣勢に陥った。

国内では、教書を出して仏教信仰の拡大を後押しした。在位9年にして392年5月に死去し、故国壌に埋葬されて故国壌王とされた。

脚注

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  1. ^ 広開土王碑文によれば広開土王の即位は391年であり、『三国史記』の記年(392年)とは1年ずれている。このため故国壌王の没年についても1年繰り上げられることになる。この記事においては没年以外の高句麗王の事績に関する年暦は、特に記さない限り『三国史記』の記年に従う。

参考文献

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