日根野盛治(ひねの もりはる)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての和泉国日根荘(現・大阪府泉佐野市)の荘官[1]武将正室は四条局[注 1][2][3]

 
日根野 盛治
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不明
死没 不明
別名 雅楽左衛門尉、左衛門入道(道悟)、道悟、雅楽左衛門入道、下総左衛門入道道悟
氏族 日根野氏
父母 日根野盛経
正室:四条局
時盛
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法名は道悟[2][4]書状では、雅楽左衛門尉[2][4]、左衛門入道(道悟)、道悟[5]。また、雅楽左衛門入道、下総左衛門入道道悟とも[6]

略歴 編集

九条家は、家領である日根荘の実権の掌握を図り、延慶3年(1310年)、僧・実専を雇い、荒野開発に乗り出す。盛治は抵抗し、百姓の住宅を焼き払ったり殺害したりするなどの事件を起こした。

正慶元年(1332年)12月25日、北条茂時北条守時の連名で出された関東御教書には、楠木正成討伐の軍に加わるようにと記されている(「日根文書」)[7][8]

元弘3年(1333年)5月25日、京都にいた足利高氏(尊氏)の元に行き、着到状を提出した[7][6]

南北朝時代となり、尊氏が畠山国清を和泉国に派遣すると、その幕下に参じた[9]湊川の戦いが行われる直前の建武3年/延元元年(1336年)5月19日には、国清から、和泉国長滝荘一円を預けられた[9][5]。また、同年12月10日、日根(野)荘鶴原村の年貢本所3分の1を兵糧所として宛てがわれた [10][6]

康永3年(1344年)9月20日、足利直義から感状を与えられた[11]

正平2年/貞和3年(1347年)11月、高師泰南朝楠木正行との戦に臨むに際して、和泉国槌丸城(土丸城)の守備を命じられた[10][12]

某年、死去[2]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 従伯叔父・中原明心みょうしんの娘

出典 編集

  1. ^ 柴田 1958, p. 1113.
  2. ^ a b c d 榮進舍出版部 1917, p. 130.
  3. ^ 柴田 1958, pp. 489–490.
  4. ^ a b 柴田 1958, p. 491.
  5. ^ a b 柴田 1958, p. 477.
  6. ^ a b c 柴田 1958, p. 490.
  7. ^ a b 柴田 1958, p. 121.
  8. ^ 柴田 1958, pp. 476–477.
  9. ^ a b 柴田 1958, p. 123.
  10. ^ a b 柴田 1958, p. 125.
  11. ^ 柴田 1958, pp. 480–481.
  12. ^ 柴田 1958, p. 481.

参考文献 編集