明知延佳
昭和時代前期の内務官僚
明知 延佳(あけち のぶよし、1897年〈明治30年〉3月10日[1][2][3] - 1979年〈昭和54年〉11月16日[3])は、昭和時代前期の内務官僚、台湾総督府官僚。旧名は俊雄[1]。
経歴
編集東京市蒲田区萩中(現・大田区萩中)に生まれる[2]。荏原中学校、国勢院統計講習所を経て、1922年(大正11年)4月、中央大学法律科正科を卒業する[2]。社会局、復興局、社会局保健部管理課を経て、1931年(昭和6年)7月、地方理事官に進み、福島県、三重県と転々とする[2]。ついで1935年(昭和10年)4月、沖縄県宮古支庁長に就任した[2]。
のち渡台し、1939年(昭和14年)4月、台湾総督府地方理事官に任ぜられ、台中州竹山郡守となり、ついで台東庁総務課長を経て、1942年(昭和17年)4月、宜蘭市長に就任した[1]。ついで高雄の食糧営団長となった[3]。
脚注
編集参考文献
編集- 太田肥州 編『新台湾を支配する人物と産業史』台湾評論社、1940年 。
- 興南新聞社 編『台湾人士鑑』呂霊石、1943年 。
- 平良市史編さん委員会 編『平良市史 第8巻 (資料編 6 考古・人物・補遺)』平良市教育委員会、1988年 。