明詮(みょうせん、大同4年(809年) - 貞観10年5月16日868年6月10日))は平安時代初期の元興寺の僧。大原桜井の孫[1]

みょうせん
明詮
大同4年 - 貞観10年5月16日
809年 - 868年6月10日
生地 大和国[1]
宗派 法相宗
寺院 元興寺
施厳、仲継[1]
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生涯 編集

10歳ほどで、元興寺に入り、法相宗を学んだ。他より抜きん出たい思っていたが、要領が悪く、それを屈辱に思っていた。ある時、明詮が雨の降る中休んでいると、石段のうちで、庇から水滴が落ちてくる箇所だけが窪んでいることに気付いた。最も柔らかい物である水滴が最も硬い物である石を時間をかけて穿ったことを知り、猛省して、自分は愚か者であるといえども、こんなところで休んでいるべきではないと思い、房に帰って、以来昼夜なまけずに勉学に励み、寝食も書斎で取った。こうして、明詮は南都で名声を得るに至った[2]

嘉祥3年(850年2月22日から3日間、法相宗の代表として、三論宗の実敏、天台宗光定真言宗の円鏡とともに、清涼殿にて仁明天皇御前で法華経を講じた[3][1]

仁寿元年(851年)7月17日、権律師[4]。仁寿3年10月25日、少僧都[4]。貞観6年(864年)2月16日、法眼和上位大僧都[5]

貞観10年(868年)5月16日、60歳で卒した[2]。80歳とも[1]

出典 編集

関連項目 編集

  • 枚乗…「雨垂れ石を穿つ」の語源