曲直瀬正琳

日本の安土桃山時代~江戸時代初期の医師・僧。一柳恕心(宣高の孫)の子で、江戸幕府御典医曲直瀬玄朔娘婿。養安院曲直瀬氏初代当主。奥医師(輪番の江戸勤番)を勤める

曲直瀬 正琳(まなせ まさよし、しょうりん)は安土桃山時代江戸時代初期の医者。曲直瀬道三に入門し、医術を認められて家名を継いだ。豊臣氏に仕え、正親町上皇豪姫後陽成上皇等の病を治した。その後、徳川家康に従い江戸に移り、江戸幕府奥医師養安院家の始祖となった。

 
曲直瀬正琳
時代 安土桃山時代江戸時代
生誕 永禄8年(1565年
死没 慶長16年8月9日1611年9月15日
改名 一柳又五郎、曲直瀬正琳
別名 養庵、養安、養安院、玉翁、雪斎
墓所 大徳寺玉林院
官位 法印
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀次徳川家康秀忠
氏族 越智一柳氏曲直瀬氏
父母 一柳恕心
曲直瀬玄朔
曲直瀬正円
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生涯

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美濃国一柳氏の一族で、一柳宣高の末孫である恕心の子という[1]天正4年(1576年曲直瀬道三に入門、天正10年(1582年)剃髪し、養庵と号した[2]

天正12年(1584年豊臣秀吉に謁見し、豊臣秀次に仕え、文禄元年(1592年)1月、秀次より近江国内250石を賜った[1]。また、文禄元年(1592年)正親町上皇の病気に対し、薬を献上し、快復したため、12月28日法印に叙せられ、天皇の命で養庵を養安と改めた[2]。養安の字は『荀子』による[2]文禄4年(1595年)、秀吉の命で宇喜多秀家豪姫を治療し、褒賞として、朝鮮出兵で得た書籍や備州信家作小刀を賜った[1]

慶長5年(1600年)4月26日、後陽成上皇を治療し、院号を許された[1]。慶長8年(1603年)正琳庵、後の玉林院を創建した。

慶長10年(1605年)、徳川家康に従い駿府江戸に移り、慶長13年(1608年)より今大路親清半井成信施薬院宗伯と共に半年毎の輪番での江戸勤番となった[1]徳川秀忠御番を勤めた後、致仕し、慶長16年(1611年)8月9日死去し、京都正琳院に葬られた[1]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 寛政重修諸家譜』巻第593
  2. ^ a b c 町泉寿郎「曲直瀬養安院家と朝鮮本医書」『日本思想文化研究』第2巻第1号、2009年

参考文献

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外部リンク

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