服部 康成(はっとり やすなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将陸奥国弘前藩家老

 
服部康成
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄9年(1566年
死没 寛永12年7月21日1635年9月2日
官位 長門守
主君 津軽為信
陸奥弘前藩
氏族 服部氏
成昌安昌
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経歴編集

康成は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける大垣城の戦いで、攻撃軍の武将である津軽為信に300石で召し抱えられ、武功を挙げたという。その後は1,000石に加増され、奉行職(家老)となった。慶長12年(1607年)12月、為信が死去し、幕府より2代信枚の後見人を命じられ、弘前藩から2,000石、幕府から1,000石を与えられ、都合3,000石で弘前藩筆頭家老となり藩政を統括した。「無類の良臣」と讃えられたといわれている。

慶長14年(1609年)5月より、弘前城築城計画に参加。元和9年(1623年)7月、2代将軍・徳川秀忠家光と共に、家光の征夷大将軍宣下のために上洛するに際し、信枚がこれに供奉し、康成も手勢36名を率いて参加した。寛永2年(1625年)、青森港開港に際し、町割りの責任者を務めた。寛永7年(1630年)、岩木山百沢寺(現・岩木山神社)山門、寛永8年(1631年)、大平山長勝寺山門の新築の惣奉行を務めた。

寛永11年(1634年)、藩内に船橋騒動が発生し、筆頭家老として解決を試みるが、決着の前に病死した。

長男・成昌が後を継ぐが、船橋騒動に幕府が介入し、喧嘩両成敗の裁定が下り双方に処分者が出ると、成昌はこれを不服として離藩。その後は加賀藩前田氏に仕官したとされる。弟・安昌は弘前藩に残留した。

出自編集

大垣城の戦いまでの康成の経歴は史料的に不明。徳川家康に仕えて「鬼半蔵」と称された服部正成の庶長子とも、同族ともいわれている。出身は伊賀国と伝わり、服部姓並びに半蔵(正成)の「成」を名乗っていることから、正成と近しい血縁関係にあったとも推測されている。家康の長門守の名乗りを与えられたり、「康」の字に関しても、家康から一字を賜ったものではないかという推測もなされている。美濃国岐阜城主・織田秀信に仕えたが、のちに浪人して三河国に住み、その後関が原の戦いに従軍する為信の軍勢に参加した、とも伝わる。いずれにせよ、津軽氏に仕えるまでの経歴に確たる史料はない。「津軽藩旧記伝類」には、文禄・慶長の役の際に、肥前名護屋への使者としてその名が既に確認できる。

大垣城攻略戦で功績を挙げたとはいえ、藩政を任されるほど重用された理由に関しては、津軽家は石田三成と親しく、三成滅亡後にはその遺児を庇護していることなどから、家康が弘前藩を警戒して監視役・付家老として康成を送り込んだ結果、いわば徳川政権の指令の伝達者として、藩政の中枢に置かれることとなったのではないかとする説がある[1][2]

脚注編集

  1. ^ 幕府からも禄を受けている。
  2. ^ 同じように推測される例として本多政重本多正重水野勝成らが挙げられる