木脇 祐定(きのわき すけさだ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国島津氏の家臣。

 
木脇 祐定
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 不詳
改名 法号:正徹
別名 通称:刑部左衛門、受領:伊賀守
主君 島津貴久島津歳久
氏族 木脇氏
父母 父:木脇祐利
町田丹後守の娘
祐昌祐春(三男)
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木脇氏日向伊東氏の一族で、祐定はその祖である木脇祐頼より続く嫡流であるが、父の祐利の頃に伊東氏より離れ、島津氏15代貴久に仕官して島津氏の家臣となった。祐定も貴久に仕えていたが、主命によりその三男である島津歳久後見となり、弘治3年(1557年)4月には菱刈氏との戦いで兜首を討ち取るなど、その元で軍功を為した。

天正14年(1586年)6月、歳久の娘婿である忠隣筑紫広門攻めで初陣を果たす際は、遠矢良時と共にその補佐に付けられ鷹取城攻めに参加する。そのときの事、祐定は土瓶に水を入れ鑓に付けて回っていたのであるが、忠隣が焼山を通って顔が黒く汚れたため、忠隣の家臣・脇元城之介がその水を所望して忠隣の顔を洗ったという逸話が『本藩人物誌』に記されている。

参考文献 編集

  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)