末永 純一郎(すえなが じゅんいちろう、慶応3年3月2日1867年4月6日) - 1913年大正2年)12月31日)は、日本ジャーナリスト

経歴 編集

福岡藩士で、国学者歌人でもあった末永茂世(しげつぐ)の長男として福岡県筑紫郡住吉町(現・福岡市博多区)に生まれる。政治運動家末永節は弟。幼少時より国学漢学を学ぶ。1883年明治16年)上京して杉浦重剛の称好塾で研鑽を積み、1887年(明治20年)から東京帝国大学法科大学の選科で学ぶ。1889年(明治22年)陸羯南三宅雪嶺福本日南らが創刊した『日本』新聞の記者となり、日清戦争では従軍記者として健筆を振るった。

1898年(明治31年)、山縣有朋が新聞紙への課税を計画すると、同志らと反対運動を展開し、これを中止させることに成功した。また同年鈴木重遠谷干城らによって地租増徴反対同盟が結成されると幹事に就任し、地租増徴に反対した。

1900年(明治33年)東邦協会の幹事となり、康有為梁啓超孫文黄興らと親交を結び、その活動を支援するようになる。また、東亜同文会対露同志会でも活動。1905年(明治38年)4月満州大連に渡り、『遼東新報』を創刊。日中両国語の紙面により、両国の親善提携を訴えた。

1913年大正2年)12月31日死去。『遼東新報』の経営は弟の末永節が受け継いだ。墓所は多磨霊園(6-1-1)

脚注 編集

参考文献 編集