本多正盛

江戸時代初期の旗本。内藤正成の三男。東照宮造営の副奉行

本多 正盛(ほんだ まさもり、天正5年(1577年) - 元和3年4月22日1617年5月29日))は、江戸時代初期の旗本高崎藩2代藩主となった安藤重長の実父。

経歴 編集

内藤正成の三男として生まれ、後に本多忠信(本多信俊の弟)の養子となり、安藤重信の女を娶った。

元和2年(1616年)の日光での東照社造営で副奉行の職にあったが、同僚の山城忠久と争いになり、正盛に打擲された[1]山城は知故の福島正則[2]の助言を受けて、自ら自害して果てた。このために正盛の罪が問われることとなり、造営完工直後に姻戚の下野板橋藩藩主松平成重に預けられ、元和3年(1617年)4月22日に切腹となった。享年41とされる。墓所は福生寺(栃木県日光市板橋)。文化13年(1816年)、子孫である磐城平藩安藤信義が同地に記念碑を建立している。

死後に妻子は安藤家に引き取られ、重長・重元・重矩の三子は重信の養子となった。長男の重長は祖父の跡を継ぎ、大名となっている。

参考文献 編集

  • 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』平凡社〈中世から近世へ〉、2017年
  • 煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年

脚注 編集

  1. ^ 故意であったかは不明である。
  2. ^ 名古屋城造営などの際、山城は福島の配下として作業を行っている。