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本庄 実乃(ほんじょう さねより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将越後国守護代戦国大名長尾氏上杉氏)の家臣。古志郡栃尾城城主。長尾景虎(後の上杉謙信)の幼少期から補佐し、奉行職、七手組大将を務め重用された。別称、本庄慶秀。

 
本庄実乃
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正8年(1511年)?[要出典]
死没 天正3年(1575年)?[要出典]
別名 慶秀、新左衛門尉、美作守、宗緩(号)
主君 長尾晴景上杉謙信
氏族 本庄氏
父母 父:本庄慶長[要出典]
秀綱、娘(山吉豊守正室)

生涯編集

栃尾城主で、長尾晴景の時代から長尾氏(後の上杉氏)に仕えていたが、幼少期の景虎の器量を見抜いて、早くから栃尾城に迎えてその側近となった。

景虎が14歳で病弱な兄・晴景に代わって越後における国人衆の反乱鎮圧に赴いた時は、その補佐役として功績を挙げた。景虎の若き頃の軍学の師であり、その成長に大きく貢献したと言われている。

謙信からの信任は厚く、直江景綱と共に側近の一人として絶大な権力を与えられていた。永禄4年(1561年)の第四次合戦川中島の戦いなどに参戦。

弘治2年(1556年)、下平吉長上野家成による領地争いに際し、実乃が家成に、大熊朝秀が下平に加担する。家中の執政を掌る実乃と大熊はライバル関係にあり、この二派に分かれた家臣団の派閥対立が激化、武田氏や蘆名氏も巻き込んだ戦闘状態となる。この状態で景虎は春日山城を出奔し、出家を宣言する(出家騒動)。蘆名氏の軍勢と共に攻め寄せた大熊を上野が破ったこと、景虎に対し家臣団は「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出したことで騒動は治まった。敗れた大熊は武田信玄の元に出奔し、以降は武田氏に重用された。

天正3年(1575年)に死去したと言われているが、それ以後も生きていたとも言われており、天正6年(1578年)の謙信の死去の際に殉死したとも言われている。[要出典]

登場作品編集

関連項目編集