李 仁老(り じんろう[1]1152年1220年)は、高麗の文臣、詩人。は眉叟、は双明斎。初名は得玉。本貫は仁川李氏

李仁老
各種表記
ハングル 이인로
漢字 李仁老
発音: イ・イルロ
日本語読み: り じんろう
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人物 編集

名門両班の家に生まれ、幼少より聡明で知られ、文章に秀で、草書隷書を能くしたが、1170年に鄭仲夫らの武臣が庚寅の乱を起こすと、戦乱を避けて僧侶となるが、還俗して、1180年に科挙に首席で及第した。礼部員外郞、秘書鑑、右諫議大夫などを歴任した。

長年、翰林院や史館で詔勅の製作に従事しながら詩作に励み、詩壇の盟主として中国にもその詩名が知られた。代詩学の影響を受け、蘇軾(東坡)と黄庭堅(山谷)の詩風を尊んだ。「銀台集」「双明斎集」の著書があり、殊に「破閑集」3巻は、崔滋の「補閑集」とともに詩評を兼ねた朝鮮最初の詩話集として、李朝時代に盛行する詩学の原点となった。

当世の名儒と謳われた林椿朝鮮語版呉世才趙通皇甫抗咸淳李湛之と親しみ、江左七賢と呼ばれた。

脚注 編集

  1. ^ 李仁老(りじんろう)”. コトバンク. 世界大百科事典 第2版. 2023年10月21日閲覧。

参考文献 編集