李弘 (唐)
唐の皇太子。高宗の五男、武則天の長男
李 弘(り こう、永徽3年(652年)? - 上元2年4月26日(675年5月25日)[1])は、中国・唐の皇太子。父は3代皇帝高宗、母は武照(武則天)。はじめ代王。義宗の廟号と孝敬皇帝の諡号を贈られた。同母弟に李賢(章懐太子)、4代皇帝中宗、5代皇帝睿宗らがいる。
李弘 | |
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続柄 |
高宗第五皇子 武則天第一皇子 |
称号 | 皇太子(追贈:義宗孝敬皇帝) |
身位 | 王→皇太子 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
永徽3年(652年)? |
死去 |
上元2年4月26日 (675年5月25日) |
埋葬 | 恭陵 |
配偶者 | 裴氏(裴居道の娘) |
子女 | 養子:玄宗 |
父親 | 高宗 |
母親 | 武則天 |
生涯編集
高宗と武照との長男として生まれる。李弘の生年に関しては諸説あるが、同母実弟の李賢が654年に既に生まれていたことを考えると、高宗が即位して間もない頃に誕生したと考えられる。
すでに、異母兄で劉夫人が生んだ皇太子李忠がいたが、武一族の台頭によって廃され、さらには皇后となった母・武后の強硬な画策によって弘が立太子することとなる。高宗も、子のなかでは最も目をかけていたおり、文武に優れ穏和な性格であったとされ、人望も厚く期待された。
ほどなく高宗の譲位によって即位することが決定していたが、周囲の期待が重荷となったのか、にわかに精神を病んだことなどがきっかけで素行が乱れ、母と不和となるなどし、675年に急死する。異説では、代わって賢を皇太子に立てるため武后によって殺された、ともされる(『新唐書』『資治通鑑』では殺害されたと記載されており、後者では鴆毒が使われたとしている)。
死を悼んだ高宗より、義宗の廟号と孝敬皇帝の諡号を贈られる。子がないため、弟の睿宗の三男の李隆基(後の玄宗)を養子としていた。