李 賢(り けん、永徽6年(655年1月29日) - 文明元年[1]684年))は、中国皇太子高宗の六男で、母は武則天は明允。諡号章懐太子(しょうかいたいし)。中宗睿宗の同母兄である。

李賢
続柄 高宗第六皇子
武則天第二皇子

全名 李賢
称号 章懐太子(諡号)
身位 王→皇太子→庶人
出生 永徽5年(654年
死去 嗣聖元年(684年)(享年31)
巴州
配偶者 房氏(房先忠の娘)
子女 李光順
李守礼
李守義
父親 高宗
母親 武則天
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概要編集

5歳で潞王に封じられ、6歳で雍州岐州刺史を兼ねる。11歳で沛王・揚州都督・左武衛大将軍に任じられる。上元2年(675年)、同母兄・李弘の死によって皇太子となる。幼い頃より学問に通じ、儀鳳元年(676年)には学者たちとともに『後漢書』の注釈を完成させた。

ところが、正諫大夫の明崇儼武后に対して弟の栄王顕(のちの中宗)を推挙したことから、武后は賢に対して皇太子を弟に譲るように迫った。それから間もない調露元年(679年)に、明崇儼が強盗に襲われて死亡するという事件が起こった。武后は彼を恨む賢の仕業であると疑い、賢の屋敷を捜索したところ、屋敷内から甲数百が発見された。武后はこれを謀反の準備であるとして、高宗に迫って皇太子を廃して庶人とした。さらに永淳2年(683年)に賢は巴州に流された。

翌文明元年(684年)に実権を掌握した武后は、左金吾将軍丘神勣を巴州に派遣して賢を幽閉し、迫って自殺させた。ところが、丘神勣が帰還すると、武后はこれを罪に陥れて畳州刺史とし、改めて賢を雍王に封じた。

次いで睿宗が復位すると、皇太子の地位に復して「章懐」の諡号を贈り、唯一生き残っていた息子である次男李守礼を邠王に封じた(長男李光順は先に誅殺され、三男李守義も病死していた)。

脚注編集

  1. ^ 旧唐書』巻86、章懐太子賢伝。

参考文献編集

  • 清水文明「章懐太子」(『東洋歴史大辞典』(平凡社、1937年/縮刷版:臨川書店、1986年)ISBN 978-4-653-01472-0
  • 守屋美都雄「章懐太子」(『アジア歴史事典 4』(平凡社、1984年))