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李 洪(り こう、生没年不詳)は、五胡十六国時代前燕の人物。平陽郡の出身。祖父は西晋の東夷校尉李臻

生涯編集

時期は不明だが、流民を従えて定陵に割拠するようになった。しばらくすると、勢力を拡大して数千の民を抱えるようになり、舞陽に拠点を移した。

やがて事実上幽州で自立していた王浚[1]により雍州刺史に任じられた。

さらに時を経て、遼東に割拠する慕容皝に帰順した。337年10月、慕容皝が燕王を称すると、李洪は列卿・将帥に取り立てられ、大理に任じられた。その後、典書令に移った。

338年5月、後趙君主石虎が数10万の兵を率いて棘城に襲来すると、李洪の弟李普は棘城の陥落は必至であると考え、李洪へ城を出て禍を避けるよう勧めた。だが、李洪は「天道とは幽遠であり、人事とは識り難いものである。任を委ねられながら軽率に行動してしまったならば、必ずや悔いる事になる」と反対したが、李普は幾度も説得を続けた。その為、李洪は「卿は思うようにするがよい。我は慕容氏の大恩を受ける身であり、ここを去るのは義とはいえぬ。ここで死ぬのみでる」と述べ、涙を流して李普と決別した。李普は石虎に降伏し、やがて石虎が撤退するとこれに付き従って南方へ向かったが、その後争乱に巻き込まれて亡くなった。この一件により、李洪は忠篤である事で名を馳せるようになった。

341年7月、李洪は右司馬に任じられ、やがて内史に移った。

350年2月、後趙討伐の大遠征軍が興ると、李洪もこれに加わった。3月、慕容儁魯口を守る鄧恒を攻撃に向かったが、清梁に至った所で鄧恒配下の将軍鹿勃早が数千人を率いて夜襲を掛けてきた。慕容儁は不安を抱いて宿衛を出ると、李洪がこれを護衛しながら高い丘の上に移った。折衝将軍慕輿根が精鋭数百人を率いて鹿勃早を迎え撃つと、李洪は騎兵を率いてこれに加勢し、多数の敵兵を斬り殺し、また捕虜とした。鹿勃早は身一つで逃走し、数千の兵は壊滅した。

360年1月慕容暐が後を継ぐと、龍驤将軍に任じられた。

364年2月、太傅慕容評と共に河南へ侵攻した。4月、許昌・汝南を攻めて東晋軍を幾度も破り、潁川郡太守李福を戦死させた。朱斌は寿春へ逃走し、陳郡太守朱輔は彭城まで退却した。大司馬桓温は袁真を派遣して李洪を防がせ、自らは水軍を率いて合肥まで進出した。李洪は許昌・懸瓠・陳城を尽く攻め落とし、さらには汝南諸郡を制圧すると、1万戸余りを幽州・冀州に移らせた。やがて光禄大夫に移った。

367年12月、司空に昇進した。

370年12月、前秦王猛によりが陥落すると、慕容暐と共に長安に移送された。到着すると、前秦皇帝苻堅により駙馬都尉に任じられ、春季・秋季には朝見する事を許された。やがて亡くなった。

参考文献編集

脚注編集

  1. ^ 晋書では苟晞により任じられている