李翰 (新羅)
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李 翰(り かん、朝鮮語: 이한、? - 754年)は、統一新羅で「司空」という役職に就いていた全州李氏の始祖[1]。
李 翰 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 이한 |
漢字: | 李 翰 |
日本語読み: | り かん |
概要編集
『太宗実録』によると、李翰は、統一新羅で「司空」という役職に就き、統一新羅時代から高麗時代にかけて全州に勢力を張っていたとするが、そもそも元々は、中国から渡来してきたともいわれる[1]。それは、全州李氏の記録である『完山実録』に「李翰は元々は、中国に住んでいたが、海を渡って新羅に渡来した」と記録されていること、『李氏得姓之由來(朝鮮語: 이씨득성의유래)』に「李翰は本来は中国唐人の末裔であり、李翰の新羅への渡来以降、代々全州に住んでいた」と記録されているからである[1]。
李氏朝鮮を建国した李成桂は、李翰の21世の孫を称しているが、出自を偽証しており、実際は女真族ともいわれる[2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。
脚注編集
- ^ a b c “김성회의 뿌리를 찾아서 <17> 전주이씨(全州李氏)”. 世界日報. (2011年10月9日). オリジナルの2017年9月16日時点におけるアーカイブ。
- ^ 池内宏 『李朝の四祖の伝説とその構成』中央公論美術出版〈満鮮史研究 近世編〉、1972年。
- ^ 大原志麻 『韓国映像文化における歴史イメージ』静岡大学人文社会科学部アジア研究センター〈アジア研究 9〉、2014年3月、46頁 。"朝鮮は、東アジアの外交関係の一つの特徴である事大外交をとってきたが、それは文化の先進国である中国に尊敬を表すもので、「文化水準の遅れた」蒙古、女真、日本には自尊心を打ち出した。その中でもとりわけ蒙古は一貫して、高貴な朝鮮人と対比的に野蛮そのものと描かれている。『武人時代』では、李成桂が女真族であることは影をひそめ、李義方の六世孫であることが強調されている。"。
- ^ 山内弘一 著、武田幸男 編 『朝鮮王朝の成立と両班支配体制』山川出版社〈朝鮮史〉、2000年8月1日。ISBN 978-4634413207。
- ^ 宮脇淳子 『世界史のなかの蒙古襲来』扶桑社〈扶桑社新書〉、2021年12月22日、57頁。ISBN 4594090435。"李成桂を『満洲人の祖先につながっていくような人』と表現しました。はっきりいえば、李成桂は女真人だった可能性が高いと私は思います。…ここでは、その理由の一つだけを記しておきます。李成桂が王座を奪ったとき、国号は前の王朝の『高麗』のままで、まず王になりました。シナ文化圏の人ならば、支配者の血が別の一族に入れ替わったのですから、王朝交代とともに真っ先に国号を変えようとするはずです。しかし、李成桂がそうしなかったのは、かれがそんなことを気にしない狩猟民出身だったからではないかと私には思えるのです。明の洪武帝に国号を変えないのかといわれて、李成桂が『和寧か、朝鮮か。どちらがいいでしょうか』とお伺いをたてました。『和寧』は李成桂の故郷の別名でもあり、また、北元の根拠地カラコルムの別名でもありました。洪武帝は『朝鮮』を選びます。シナの皇帝に選んでもらった『朝鮮』を国号にしたのが李氏朝鮮なのです。自分の国の名をよその国の皇帝に決めてもらうなど、主体性がまったくない証拠です。シナの属国だと自白しているのと同じです。"。
- ^ 宮脇淳子 『韓流時代劇と朝鮮史の真実』扶桑社、2013年8月8日、89頁。ISBN 459406874X。"元に征服されて以降の高麗王はほとんど母親がモンゴル人だし、民族主義とか国民国家史観とかいった観点から追求していくと、結局タマネギの皮を剥くみたいに、どこまで行っても彼らの考える朝鮮民族なるものは出てこない。早い話がいろいろな民族が混ざり合っているわけです。…しかし、彼らにはそれを認められない理由があるのです。まずひとつには、満洲が今は中国だから、北方と関係があると言えば、自分たちが中国の一部とされてしまうことを恐れている。これは『朱蒙』がつくられたきっかけを見てもわかります。でも、同じように朝鮮半島より北で生まれた朱蒙や広開土王を『おらが英雄』扱いする割には、李成桂が女真人だと言うと腹を立てるというのは、話の辻褄が合いません。客観的に見て自己矛盾も甚だしいですが、それが気にならないのが韓国人の歴史観というものです。まあ『檀君神話』のような絵空事と史実を混同している時点で、そうなるのも無理はありませんが。二つ目は、『龍の涙』も女真人をちょっと低く描いていますが、基本的に女真人は野蛮人だと思っているのです。中華思想では漢字を読める人間だけがステイタスが高く、『四書五経』を理解できる人たちが下々の人間を統治するというのが儒教の考え方だから、漢字ができない民族をバカにする。強大な清朝が興った時ですら、朝鮮は現実を見ずに最初は『あんな野蛮人の言うことなんか聞くか』とバカにしていたのです。もちろん最終的には、怒った清に力ずくで土下座さえられて臣従するわけです。"。
- ^ 室谷克実 『日韓がタブーにする半島の歴史』新潮社〈新潮新書〉、2010年4月1日。ISBN 978-4106103605。
- ^ 宮家邦彦 『哀しき半島国家 韓国の結末』PHP研究所〈PHP新書〉、2014年10月15日、160頁。ISBN 4569822266。"李氏朝鮮は1392年、元が衰退したのちに親「明」であった女真族の李成桂が建国し、コリア半島をほぼ制圧したあと、1402年に明に朝貢・冊封した。"。
- ^ 豊田隆雄 『本当は怖ろしい韓国の歴史』彩図社、2016年10月17日、70頁。ISBN 978-4801301856。"倭寇の撃退に功績をあげた李成桂は1392年、高麗を倒して朝鮮を建国。漢城(現ソウル)に都をおいた。出身については、女真族だったと主張する研究者も多い。出身地が女真居住地域だったこと、李成桂がモンゴル名を持っていたこと、幕下に女真の首領を加えたことなど、数々の傍証がある。"。
- ^ 岸本美緒、宮嶋博史 『明清と李朝の時代』中央公論社〈世界の歴史 (12)〉、1998年4月1日、17頁。ISBN 4124034121。"全州李氏の一族とされるが、女真族の出身とする説もある。父の李子春は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域の双城総管府に使える武人であった。この地域は女真族が多く住んでいた。李成桂が武臣として台頭するにあたっても、その配下の女真人の力が大きく作用した。"。
- ^ 倉山満 『嘘だらけの日韓近現代史』扶桑社〈扶桑社新書〉、2013年11月30日、34頁。ISBN 978-4594069520。"1392年、李成桂という謎の人物が高麗を倒し、新王朝を建国します。謎というのは、どこの誰だかよくわからないからです。韓国は当然ながら朝鮮人だと言いますし、中国人のなかには漢民族だとか、モンゴル軍閥の一人だと言う人もいます。最も信憑性が高いのは、女真人(満州人)でしょう。"。
- ^ 岡田英弘・宮脇淳子. “論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である”. 岡田英弘宮脇淳子研究室. オリジナルの2010年11月6日時点におけるアーカイブ。