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村上 忠勝(むらかみ ただかつ)は、江戸時代前期の大名越後国村上藩2代藩主村上城主。養父と同じく義明(よしあきら)とも名乗り[1][2]受領名も同じく周防守を称した。

 
村上忠勝 / 村上義明
Murakami Tadakatsu.jpg
村上忠勝像(法昌寺蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 慶長4年(1599年
死没 元和9年9月26日1623年11月18日
別名 義明、通称:周防守
墓所 法昌寺・村上周防守供養塔(兵庫県丹波篠山市黒岡)
官位 従五位下周防守
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠
越後村上藩
氏族 戸田氏信濃村上氏
父母 父:戸田氏繁(勝隆)または戸田内記(重典)、母:村上頼勝の妹または娘
養父:村上頼勝
正室:花井吉成の娘

経歴編集

戸田氏の出身だが、村上頼勝の妹婿戸田氏繁(勝隆)の子で頼勝の養子となった[2]とも、(勝隆の弟・勝成の子)戸田内記の子で[3]、頼勝の娘が母ともいう。

何れにしても、母方の親戚である頼勝の養嗣子(または猶子[2])となった。

慶長17年(1612年)1月、将軍徳川秀忠あての東北諸大名の誓書に村上周防守忠勝とある[2]高田城松平忠輝の与力として村上城主を継ぎ、元和元年(1615年)、大坂夏の陣では忠輝に従って出陣した[2]

元和2年(1616年)、家督を継いだ。

忠輝の失脚後、元和4年(1618年)、家臣の魚住角兵衛が暗殺されると、その黒幕が家老・高野権兵衛ではとの風評が立ち、論争となる。幕府に報告して3月6日に裁決されたが騒動が収まらず、4月9日に家中の論争が多いとの理由で改易された。大坂の陣に前後して、幕府寄りだった高野派と豊臣氏に味方すべきと主張する家老・冨田次郎左衛門派の抗争があったとする見解もある[4]

捨扶持300石を与えられて丹波国篠山に流罪とされ、同藩主松平康重に預けられた。林八郎右衛門ら家臣二十数名が同地に従った。元和9年(1623年)に死去した。25歳という[5]

脚注編集

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  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus-村上忠勝』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e 朝日日本歴史人物事典-村上義明』 - コトバンク
  3. ^ 山鹿素行、国立国会図書館デジタルコレクション 「第二十四続集」 『武家事紀. 中巻』 山鹿素行先生全集刊行会〈山鹿素行先生全集〉、1915年、242頁http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946585/128 国立国会図書館デジタルコレクション 
  4. ^ 大場喜代司、別冊歴史読本『御家断絶 改易大名の末路』
  5. ^ 村上市編 『村上市史 通史編2』 村上市、1999年2月、32-35頁。 NCID BN03441868