東京丸 (日本郵船)
日本郵船の貨客船
東京丸(とうきょうまる)は郵便汽船三菱会社、日本郵船の貨客船[2]。
東京丸 | |
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基本情報 | |
船種 | 貨客船 |
船籍 | 日本 |
所有者 |
郵便汽船三菱会社 日本郵船 |
運用者 |
郵便汽船三菱会社 日本郵船 大日本帝国陸軍 |
建造所 | Napier, Shanks & Bell |
母港 | 東京港/東京都 |
信号符字 | HGBV[1] |
IMO番号 | 952(※船舶番号)[1] |
経歴 | |
進水 | 1884年11月18日[1] |
竣工 | 1885年5月[1] |
就航 | 1886年10月 |
最後 | 1900年4月1日座礁沈没 |
要目 | |
総トン数 | 2,194トン[2][3][4] |
垂線間長 | 87.52m[2][3] |
幅 | 7.13m[3] |
深さ | 5.72m[3] |
主機関 | 二連成レシプロ機関 1基[4] |
推進器 | 1軸 |
出力 |
211NHP[1][3] 279SHP[2] |
速力 | 11ノット[2][3] |
船歴
編集1885年(明治18年)、郵便汽船三菱会社向けにグラスゴーのNapier, Shanks & Bellで建造[3]。同年9月29日、郵便汽船三菱会社は共同運輸と合併して日本郵船となり、「東京丸」も日本郵船に継承された[5]。
1886年(明治19年)10月から「東京丸」は横浜・上海間の航路に就航した[6]。
日清戦争時、陸軍に徴傭された(1895年1月5日徴傭、同年10月26日解傭)[7]。
1896年(明治29年)、日本郵船はオーストラリア航路を開設し、「東京丸」は同航路に「山城丸」、「近江丸」に次いで第3船として就航した[8]。オーストラリア航路就航船は1898年(明治31年)11月以降順次同航路用に新造された「春日丸」、「二見丸」、「八幡丸」に代わった[9]。
濃霧の中芝罘から天津へ向けて航行中の1900年(明治33年)4月1日午前0時過ぎに「東京丸」は廟島列島長山島の北東端で座礁し、その後沈没した[10][11]。5名が溺死した[12]。
脚注
編集- ^ a b c d e “東京丸”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2023年8月27日閲覧。
- ^ a b c d e 茂在寅男「東京丸」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、コトバンク(2023年5月18日閲覧)
- ^ a b c d e f g 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』40ページ
- ^ a b 『七十年史』676ページ
- ^ 『七十年史』21-23、676ページ
- ^ 『七十年史』30ページ
- ^ 『日本郵船株式會社五十年史』129ページ
- ^ 『七十年史』72-73ページ
- ^ 『日本郵船株式會社五十年史』151ページ、『七十年史』73ページ
- ^ 『日本郵船株式會社五十年史』685ページ、『審判裁決錄 明治三十三年分』188-189ページ
- ^ 日本郵船『七十年史』676ページの創業当時の継承船舶の表の備考欄には明治33年4月25日沈没とある。
- ^ 『日本郵船株式會社五十年史』685ページ
参考文献
編集- 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』世界の艦船・別冊、海人社、1984年、ISBN 4-905551-19-6
- 日本郵船株式會社(編)『日本郵船株式會社五十年史』日本郵船、1935年
- 日本郵船株式会社(編)『七十年史』日本郵船、1956年
- 『審判裁決錄 明治三十三年分』遞信省管船局、1903年